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散歩する侵略者のotomisanのレビュー・感想・評価

散歩する侵略者(2017年製作の映画)
3.8
 「宇宙人」の概念はどこで仕込んだ?「宇宙人」は抽象的でないからOK?などと立ち止まって見ると、周りにある細々がみな各様である事、さまざまな部分の複合である事、意味の多様さに気が付いて、なら「宇宙」には「人」には抽象性が含まれてないか?とか、事がややこしくなってくる感じだ。

 どうやら、「自分」と「他人」も「宇宙人」には新発見だそうで、してみると、静岡県民3人に乗り移った宇宙人の先遣隊は3個体であっても互いを別のものと認めながら、個体間には個別に取得した情報以外の違いを感じないという事なんだろう。すると、そんな宇宙人侵略団たちに長澤「愛」が移植されると、「愛」の対象個体と「愛」されない対象個体、さらには「愛」が揺らぎつつある個体に分れて、互いを疎外し、かつ疎外される正体不明感に戸惑い侵略どころではなくなってしまうのだろうか?それとも「概念」らしく普遍的「愛」に満たされ、侵略を必要とする事情も吹っ飛んでしまうのだろうか?

 概念と長澤「愛」的観念の違いも踏まえない宇宙人の、愛に惑うかなんかで目標を見失うような軽薄な事情で侵略に来られては甚だ迷惑だ。そもそもどんな採算性でやって来たのか?地球でコンサルを受けるといい。
 しかし、よりにもよって言語明瞭意味不明(と日本の元代表者、竹下登は評された)な日本の平均的姿を映すという静岡県に来着するのは意味深であるのか?あるいは富士山が目立っただけなのか?
 でもたぶんそんな事はどうでもいいのだ。生簀の金魚に乗り移ってしまう程度のおっちょこちょい宇宙人で「侵略」の概念さえ、かつてどこかの星で仕入れた付け焼刃に違いない。しかし、彼らがこれまで「自分」も「他人」も「愛」も仕込めなかったのなら、地球人の「愛」には宇宙的希少価値性があるという事だろう。

 これを契機に宇宙の中心となって愛を叫ぶ地球が侵略という外道な「仕事」を打倒する平和の聖地になる?―――というのもどこか消化不良気味だが、少なくとも概念を引っこ抜かれた平刑事氏も丸尾君、セクハラ社長、厚労省氏も何か幸せそうじゃないか。自分の根幹を露わにして宇宙人と向き合った彼らがその根幹を引っこ抜かれた後の肩の荷が下りた感は、それあるがため自分も成り立っていたのに同時にそれに常に苛まれて来たことをあぶり出しているのだが、侵略間近の束の間、概念ごと世間からの重荷を引っこ抜かれて味わう幸福感にはストックホルム症候群に因んで黒沢・静岡症候群の名を呉れてやりたい。
 しかし、なんでも新しいものには反動がでる。概念抜き治療が結構なら概念抜き攻撃は政治も軍事も事を一新するだろう。ついでに抜かれて幸せなはずの丸尾君も新たな世界の問題に直面する。その厄介さは内に籠って手掛かり無しなのの裏返しで外に向かっての手掛かり空振り続きとなるのだ。

 しかし、ひとつだけ、「愛」についてはどうなんだろう。長澤「愛」を引っこ抜かれて途絶状態の長澤が当初、「何も変わらない」と感想を告げながら呆然と途絶に向かう様子は意味深い。一方で龍平宇宙人が「概念」を把握できなかった神父の「愛」の概念には立脚しない?らしい事にも、監督のそれって何だと思う?長澤「愛」の強く指向性明白なそれと神父の「愛」の違いとは?という問いかけとも感じられて来る。「愛」を巡る龍平、長澤、神父の三様もまた、何が決着なのかよく分からないこの映画に鵺的おもしろさを添えている。
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