【Self-dialogue】
正邪の分身関係(同一性)の如く 硝子衝立で鏡像化する三隅/重盛の相貌。
そこで虚実不明な言説を繰り返す三隅(役所)に鬱積を募らせた重盛(福山)が叫ぶ-『本当の事を教えてくれよ』と-。
然し、その硝子越しの三隅の顔には 他ならぬ重盛自身の相貌が鏡映しており、重盛の三隅への問いは悉く自分自身への問いと成り返ってくるのだ。
『深淵をのぞく時、深淵もまたお前をのぞいているのだ』-フリードリヒ ニーチェ
嘘を重ねる三隅に憤る重盛。それは、忖度/手打ち/算盤勘定/事なかれ主義等で同様の嘘/矛盾を積み重ねている重盛自身の映し鏡に他ならない。
他者を詰問する前に 己はどうなのだと-。
接見室に現れる役所広司に頭上から降り注ぐ光芒。告解/懺悔室の如く向かい合う福山/役所の シンメトリーな構図 等、裁く者が逆に裁かれる - 問われる事となる「宗教的暗示」。
広瀬すずの顔貌に浮かび上がる正邪の光陰。開閉を繰り返す幾つもの扉と硝子越しの視線。-各モチーフ、それを顕すショット共に冴えている。特に三隅賃貸住宅室内への《光りが僅かに射す》外光の入射具合。マンションエントランス - 母子との何気ないやり取りの 二重扉の遮蔽とフレーミング、そしてそれを見やる福山の眼差しが忘れ難い。
燃える様な陽光を浴び頬を拭う重盛 - この時、重盛は三隅、咲江(広瀬)とequal/等価となる。
と同時に、この映画それ自体が、観客各々の写し鏡と化す。
三隅の虚言から勝手に理由を構築せんとする重盛と、同様に虚構であるこの映画から 勝手に趣意を構築せんとする私とが重なる-。
そこに映る「自身の枠組みに当てはめた“都合良き解釈”を構築する姿」も、「安易常套句『ありえない』を繰り返すばかりで、絵空/他人事と謗り 決して自己事象勘案せぬ姿」も、重盛(と同時に三隅)とequalなのだ。
依って本作は殺人/裁判とゆう特別な事象を扱いながら、その主題は極めて普遍的である。
- 知らず自らが怪物と化さぬよう心せよ -
《劇場観賞》