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僕のまわりの悪魔のMTMYのレビュー・感想・評価

僕のまわりの悪魔(2016年製作の映画)
3.7
小学生のフェリックスは歳の離れた3人姉弟の末っ子。両親の不仲やいじめなどを目の当たりにし、同時に経験していく彼は、次第にそれらに翻弄されていくようになる。
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子どもが思う(創り出す)悪魔と、
いわゆる社会的な悪魔。
フェリックスの見上げる視点からの世界と
私たちが第三者的に見る視点の世界で物語が分けられているのが面白い☺︎
全然セリフがないフェリックスの考えることがうまく映像になっていたようで興味深かったです。
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自分の中の嫌な部分が、まるで自分じゃないように意思を持って行動に出る瞬間を、悪魔と呼ぶならば、
子どものそばで生まれる悪魔は、いわば良いも悪いも想像のなかの副産物がほとんどだけれど、
社会のうちでうまれる悪魔は、いわば非道徳が現実に牙を向ける瞬間にうまれてしまうものだと思う。
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もしかしたら…という妄想が、具体的なコンテクストなしに1人走りしてしまうフェリックス(子どもたち)の”悪魔”とは対照的に、
具体的な時間軸やプロットを踏んできて巧妙に生々しく歩み寄ってくる”悪魔”。
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幼い子どもが社会的な悪魔たちと良い意味で正面から向き合えていない/もしくはまだそれが何かを知らなくてもいい存在だと描かれている印象的な場面が、
森の中の宝探しのシーンにあるように思う。
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宝を探すという、いわゆる子どもが喜ぶアソビを餌にして悪魔が牙をむけてしまう現実社会。
宝を探すという、いわゆる楽しいアソビに、子どもは(例えばフェリックスはそれに楽しさを仮に見出せなかったとしても)その悪魔は出没させることはない、なぜならそれを知らない無垢な存在とされているから。
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「子どもは知らなくていい」とスコップで塞がれてしまう社会の土壌で、今日も子どもたちは駆け回る。
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フェリックスがあの袋を引っ張り出しきれなかったのも物語の中では必然的であり、
あくまで出会ってはいけない悪魔同士の境界線だったのかもしれない。
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ただ1つ言えそうなのが、
子どもだろうが大人だろうが悪魔というのは誰の中にもいるかも知れなくて、それを悪魔として召喚してしまうか、しないで済むのか というのはその本人や社会の決定によって異なってくるという厄介な点
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ぼくが悪い事と思ったことも、
オレにとっては青春の1ページかもしれないし、
社会が悪事だと決めつけたことも、
私にとっては救済かもしれないし、
僕がアソビと思ったことも、
彼女にとっては残酷なことかもしれない。
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なんでそんなことをしてしまったのだろうか....
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と後悔して自分を憎んだりする。
フェリックスと彼の違いは、年齢や成熟度に限らず、
周囲にそれを共有できる理解者やサポーターがいるかどうかにも関わってくる。
物事の見方を変わることで解放されることもあれば、
自分で抱え込んで一生追い続けなければならないこともある。
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フェリックスという主人公がいながらも、
いつのまにかその対照的な物語が交わりながら展開されていく様子が、チグハグで曖昧だけど面白い。
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