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ジャバウォッキーのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ジャバウォッキー(1971年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

 次から次へと見たことないイメージすぎて、鑑賞後眠りに落ちる(知恵熱?)。無いものを現出させるその創造性が羨ましい。

 筋は無いが、掲げられた肖像写真が”父”の存在で、監禁されてるかのような閉塞感があるという幾つかのレビューを見てなんとなく腑に落ちてきた。そして、これは少女性を淘汰され男らしく生かされ、青年になってくまでの過程の話なのではないだろうかと考えた。
 
 そう思うと、あの迷路のトライアンドエラーは、正しい道を進まされ矯正されていくことを象徴しているようだ。幕間のイメージもだんだんと城とか船とかになっていくが、その中に不意に現れる物憂げな少女は、まさに少年が抱くアニマなのではないだろうか。冒頭は少女の姿をしていたが明滅するその姿は瞬く間に消え、少年服が踊り出す。人形を少年服は破壊し少女性を淘汰していき、遊びは騎兵隊ごっこに変わるが、それを再び女の子の人形が破壊していくせめぎ合い、葛藤。ナイフなど鋭いもので遊びだしたらいよいよ男の世界に導かれていく。一度科学や映画に興味を持った彼の部屋は勉学の中で淘汰されてしまう。父が口から吐く女の顔(どれも似た顔)に対し、窓の外に文通を無数に飛ばしてく(自慰行為にも結びつく)。尻叩きから始まった今作は、制服の股間へとクローズアップして終わる。なるほど、こうして字に起こして考えてみると、明快な筋がある。しかし、こうして骨格がわかることなんていっときの楽しみであり、目でわかるが頭がついていけず、その謎に惹きつけられることが一番シュヴァンクマイエルの楽しみ時なんだなと思う(クラクラと打ちのめされる時)。哲学が物事の骨格を示していくと、しばし現実に幻滅してしまうような感覚に陥る。ただ、幻想を上部だけで消費していくこともまたいっときの楽しみでしかなく本質を殺してしまう。大事なのは打ちのめされたそれへの引力を信じて思考することかなと、いたって単純な結論だけども。

 シュヴァンクマイエルの少女性はしばし変態性として、フェチとして語られるが、実際は今作のように幼少期を過ごした過去があったのではないだろうか。まず人間が男でも女でも反対の性質をアニマとかアニムスとして抱えているわけだ。その一方の性質を抑圧しようとしていく父の存在と、染まりつつも反抗していくというのが描かれていると見た。しかし、父殺しが完成する時、それは立派な男になることであり、教育通りになってしまうのであった。ユングがそうした抑圧をどう考えているとかは浅薄故言及できないが、殊シュヴァンクマイエルはあらゆる抑圧を悪としてる面があり(それは芸術そのものが国から弾圧された背景故)、あの時の少女性を殺さなければ、抑圧が無ければ、人はもっと創造的になり得たという主張があるように思える。しかし、これも裏を返せばシュヴァンクマイエル自身の創造性は抑圧による産物であることを裏付けているとも言える。そうは言えど、父権への嫌悪、抑圧への苛立ちの方が勝る。こうして、幾度の父殺しとそれによって自身が父になるというのを繰り返し、人類は生きていく。現状を打破し続けることが創造性への、自由への道なのだ。

 にしても、部屋一つの中にこれほどの創造性が詰まっていることは、恐ろしくも凄まじいな。人形を見ても、これを煮ようという思考に至れないからシュヴァンクマイエルは凄い(自分にはそれは超えてはいけないラインという線引きが心の中にある…つまらない線引き)。

P.S.
 そういやジャバウォッキーが一体なんなのか、今作とどういう繋がりなのかわからんかったな。ジャバウォックの詩の少女による朗読はあれども。名付け得られるもの、つまり子供の状態それ自体がナンセンスな存在であり、ジャバウォッキー的な存在なのか。ある意味では抑圧への懐疑だけでなく、自由さが怪物となって牙を剥きかねないという警句も伏せ持っているのかもしれない。
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