あきらむ

ハウス・ジャック・ビルトのあきらむのレビュー・感想・評価

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
4.5
建築家志望であるが、技師(何の技術者かは描かれないが、工具を使用することと依頼があれば個人で成り立つ仕事だと推測できる。)のジャックが、芸術活動と称して殺人を繰り返す話。

何か芸術をやってみたいが、上手く表現出来ず直接的な描写ばかりの誰にも評価されないようなくそ作品しかできない、もしくは作品を完成させられなくて自己嫌悪したことがある人には共感できる話ではないか。対象が殺人になってしまったというのは、自己顕示欲が暴走した結果ともとれる。
殺人はどんなにクソな殺害方法でも評価されるし注目されるのだ。

ジャックの殺人の動機には、様々な要素が含まれている。例えば以下の通り。
・芸術活動
・自己顕示
・建築家として家を建てるインスピレーションを得る
・殺人依存性

ジャックの語る5つのエピソードは、彼の行った何十の殺人の中からピックアップされたもので、どのエピソードをとっても殺人の描写は刺激的である。「カンヌで劇場を退出した人」が居るのもうなずける。特に子供殺しについては児ポに引っかかるのではないか?と不安になった。夢に出そうな猟奇さであった。

最初は殺人にいっぱいいっぱいだったジャックだが、やがて死体で工作を行うようになっていく。殺人に慣れることにより、殺す過程よりこちらがメインになっていく(エピソード4の親子殺しはジャックが殺しの過程も芸術と考えている節があるが…)。慣れるにつれて四コマ漫画のように簡潔に人を殺せるような成長を遂げているのも見どころのひとつ。

ジャックが強迫観念にかられ危険を顧みず殺人現場を清掃しまくる様子には会場が笑いに包まれていた。人の殺人を笑うなという気持ちだが、冷たい熱帯魚にも通ずる面白さである。

ジャックの殺人技術の成長に最早感心してしまう。殺人の練習を徹底的に行う度描写は、バニシングの主人公教授にも通ずるが、バニシングでは自分を実験体にしていたのに対し、ジャックは実践の中で成長するタイプである。実際、秩序型連続殺人犯※計画的にターゲットとの人間を殺し証拠を隠滅し警察やマスコミを煽るタイプの殺人犯のこと※は殺人を行う度に熟れて洗練されていく。

ジャックの死体を使った作品については、本人にしか満足出来ないしろものだろう。見ている側にもわかるくらい馬鹿げている。この様子からもジャックが芸術家ひいては建築家として生前に名を残せないことがわかる。確かにおぞましさの後に美しさを感じるものもあるが、人の命を使用した結果生まれた芸術なのだから、見る人を刺激しないわけが無いのだ。だからジャックのオリジナリティや芸術的センスについても大したものは無い。誰にもできるようなことではない「殺人」を行ったことに世間は注目しているだけで、芸術として理解出来ている人間はこの地球上にジャックを除いて一人もいない。その事をジャックは理解していたのだろうか。

ジャックは死後にこそ人は正当に評価されるというどこで形成されたかわからない信条を持っている。もしかして自分は生前成し遂げることが出来ないと理解していたのではないだろうか?

メタ的な意味で我々観客目線でなら、絵画のひとつとしてジャックの死体アートを捉えられるが、それにしても酷いのである。これは神の目線とも重なり、観客の思いと同様実際ジャックは地獄行きとなるのだ。

ジャックは確かに誰が見ても異常者なのだが、哀れな人物である。だから、憎みきれないところがある。作中何度か神や人間に罰せられることを望んでいる。
酷い事をやっているという意識はないが、芸術を完遂できない自分を憎んでいる、そして世界を憎んでいるのだ。
そして、天国の景色を見て泣くのだ。地獄に落ちることがわかっていたくせに。急に人間くさい真似をするので、頭が痛くなった。

トリアー監督の作品は、刺激的な描写が多くそれが「オリジナリティ」とされている。これはジャックの実践している殺人=アートと被るのではないか?つまり、本人は俺はすごい芸術をやっているぜと思っているが、はたから見たらただ派手な事をやって承認欲求を満たす恐ろしき馬鹿もしくはガ⚫キチである。トリアーは客観的に自分をジャックに重ねて撮ったとしたらなかなかのマゾである。