yoshi

ローラーボールのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

ローラーボール(1975年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

Filmarksでの評価が低いのが意外。
暴力描写が売りの単なる娯楽作品ではなく、実は立派な社会派ドラマ。
何不自由ない生活を保障されながらも、目に見えない圧迫感に満ち満ちた未来世界の空気感が画面から伝わってくるSFの佳作。
…と私は思っている。

アカデミー作品賞を受賞した「夜の大捜査線」のノーマン・ジュイソン監督が描いた映画史上初(?)の近未来エクストリームスポーツを描いた映画。(間違っていたら、ごめんなさい。)

若き日のセクシーな魅力を放つジェームズ・カーンが、ローラーボール史上最高のプレイヤー、ジョナサンを演じている。
ローラーボールとは、ローラースケートとモトクロスとフットボールとボクシングを組み合わせた、近未来で大人気の格闘スポーツだ。

(2020年現在、もはや過去となってしまったが、)時は2018年。エネルギー、食糧、住居、輸送、通信、娯楽と6つの大企業によって支配されている地球が舞台。

大企業に完全に管理された世界では、環境汚染、飢餓、人口増加といった国際的問題は解消されている。
必然的に戦争や犯罪も存在しない。

(ここまで世界が協力していない現在世界が残念だが、実業家であるトランプ氏が現在の米国大統領であることを考えると、企業が支配する未来は今後「あり得る」)

平和で満たされた世界なのだが、人間の闘争本能は残ったまま…。

その解消策として人々を魅了していたのがローラーボールと呼ばれる都市チーム対抗競技。
人々はその競技中に繰り広げられる暴力に興奮し、管理体制に抑圧されているストレスを発散する。

暴力が大衆の娯楽であるいう設定は「スパルタカス」で描かれたローマ帝国の剣闘士と同じである。
いかに文明が発達しようとも、古代の昔から人間は戦うことに興奮し、相手を倒す暴力に快感を覚える生き物である事を再認識させられる。

そこに政治的陰謀のスリラーと大衆を煽るメディアへの風刺が加わる。

この視点は後に「バトルランナー」や「ハンガー・ゲーム」シリーズなどのSF作品に影響を与えたと私は思っている。

この歪んだ未来では、企業が国家に取って代わり、世界を支配しており、会社の重役たちはカーン演じるチャンピオンのようなボーラーが自分たちの人気度を悟らないよう、ゲームに裏工作をする。

このゲームでスターになることは、その発言は国民に多大な影響を与え、企業による支配体制を覆しかねないからだ。

勝ち続けるジョナサンの人気と影響力は、徐々に政治的な力を持ち始める。
しかし、当のジョナサンは政治になど全く関心はない。
ジョナサンの虚無的な表情はゲームの暴力性に疲れ果て、実は美しい妻(モード・アダムス)との平穏な隠居生活を望んでいる。

共に闘うチームメイトに勝利を捧げたいリーダーとしての責任感が、彼を奮い立たせているだけだ。

しかし、ジョナサンの存在が大きくなることを恐れた大企業の社長は、彼をゲームの上で合法的に抹殺しようと、毎回試合で刺客を送り込んで来る。
卓越した能力を持つジョナサンはそれをことごとく退け、人気は更にアップする。

次第に激しさを増していくローラーボールのアクションは、今見ても扇動的であり、充分に残虐だ。

全体的に色味を落とした妙に冷めたカメラワークが、未来の無機質感を良く表している。
実際、SFとしては未来世界の描き方がとても地味に見えるのだが、本作の未来の描写で重要視されているのは、建築物や多機能なガジェットではない。

中盤、パーティーを終えて陽気になった参加者が森の中を歩くうち、一人の女性が、樹木に向けて光線銃らしき銃をブッ放し、大きな木が燃え上がるシーンがある。

満たされていながらも、人間の闘争本能は消えないことを象徴するこのシーンは、とても印象的で象徴的だ。
空想科学の描写よりも、未来の人間性に対する描写に重きを置いているのだとわかる。

ここでの兵器の扱いは、競技の興奮よりも簡単に手に入る興奮であり、誰でも扱える圧倒的な暴力だ。
これは簡単に手に入る銃や麻薬への批判でもあろう。

最後にニューヨークで展開される死闘は、それこそ古代ローマの円形競技場で行われる剣闘士の戦いを思わせる。
電光掲示板に表示されている選手名が、その選手が死ぬと消える描写は何とも薄ら寒い。

ラストシーン、敵味方通してたった一人生き残ったジョナサンがゴールを決め、ウイニングランを始める。
アップになって静止、更にアップになって静止という映像に、効果的にバッハのトッカータが被さる。

このシーン一発で、いかに平和な時代が来ようとも、争うことを止めないのは人間の本能であり、宿命であるというメッセージが突き刺さる。

たった1人生き残るジョナサンは、戦争の虚しさを訴えている気がしてならない。

70年代のアメリカン・ニューシネマは登場人物が敗北することで体制にねじ伏せられる虚しさがあったが、体制に勝利して、たった1人だけ生き残る孤独もまた虚しい。

また、大衆に憧れられながらも、その後も孤独に闘いを続けていくであろう、止めないであろうジョナサンは、世界の警察に祭り上げられている孤独な大国、アメリカの象徴である気がしてならないのです。
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