「覚えておいて欲しいのは、
君がもし陰性でも、この団体のメンバーになるということはつまり、他の人からしてみれば君は陽性でありエイズ患者なんだ」
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どうしようもなく揺さぶられ、息も絶え絶えでした。
ACT UPという団体の存在を私は知らなかったのですが、フィクションにしろ、仮にもドキュメンタリーだったにしろ、
非常に素晴らしい、生きた作品です。
最近はいろんな場所でいろんな活動や抗議デモがみられる。正直やりすぎではないかと思う事柄もあったりする。
今回の作品もまたすごい。
製薬会社に乱入し、血糊を撒き散らす。
高校に乱入し、クラスにコンドームをくばり捲く。
しかしそれを また過激なことを と片付けてしまうのは全くの間違いでした。
矛盾や不当な差別に目をつむることが道理であると勘違いした社会を、どうして声を荒げて「間違っている」と言ってはダメなのか。
そうするべきであるのに。
社会的に間違ったレッテルを貼られ、
それでもなお、抗い、正そうとするあの若者たちは勇敢でした。
静寂、沈黙= 死 。
彼らは自らの命の終わりを知りながらも、
それを待つことをしない。
なぜなら、それをすることが 死 になるからです。
話し合う、抗議をする、クラブで踊る、人を愛する。
生きるエネルギーと、哀しき沈黙。
無知の死、知識の生、
衝突の会話、生き甲斐の愛。
何かに精一杯になるから、生きて、生かされる…
でもどこかのコラムにこんなことが書いてありました。
私は少しショックでした。
「ナタンがショーンを愛したのは、
ショーンの命が限られていると知っていたからかもしれない。
一方で、ショーンがナタンを愛したのは、
素晴らしい話し相手というナタンの存在に恋をしていたともいえる…」と。
でも私は言いたい、
たとえそれが正義や本物でなかったとしても、何かに一生懸命になった時間は”本物”なのです。
こわいのは、その時間が本物か否かということではないのです。
こわいのは、その忘却という葬りなのです。
彼らの人生は儚くとも勇気に満ち溢れ、
生きている。
それを忘れてはいけない。