【屹度また華開く】
麻生久美子の右手を包み込む様に支える岡田准一の“右手”は、彼女の頬を優しく撫で 肩を抱きしめる。
着座しその膝に乗せられた右手は、時に落ち着かぬ様に指先を戯れさせ、時に彼の表情を隠し覆す様に顎から頬に宛てがわれる。遺髪にそっと添えられる指先も忘れ難い。
然しながら、劇中大部分に於いてその手は“半拳状”であり“虚空に浮いている”-。
袖口から覗く右手頸/手甲/運指-其れだけで彼の立場/概況 そして心象を語る-その精良。
出自がアイドル故も頷ける小顔/小柄な体躯とは均衡を欠く様な、逞しく太い腕の岡田准一は、前述の右手に依る身体言語性の精良は勿論 徒手格闘思わせる剣戟でも十分に魅せる。
相貌左方半面のみ破顔一笑す奥田瑛二をはじめ、他俳優陣も皆巧みだ。
《追記》
「時代劇」とは、襟を正す-頭を下げる-跪くといった所作で、人物の関係性や心象を〈抽象に与せずとも〉容易に可視のものとしてしまう-それ故極めて映画的なジャンルである訳だが、本作に於ける精良は木村の演出力とゆうより、そんな時代劇が本来的に有する〈ジャンルの力〉と芸達者な俳優陣に負うところが大きいのではないか-。
例えば「妻の頬に触れ、遺髪に触れ、散り椿に触れる-それも同構図で-」そういった科白無しで簡潔に彼の想いを伝える対照の作法等が欲しい。
妻の強い想いも、何らかのモチーフの反復に依って気付かせるべき筈であるが、結局安易簡便な“回想”と“講話”頼りであり、それは最早演出ではなく説明である。
「見えない影」をどう得心させるかに対し全く無頓着である。
結果 隠喩及び諷示等 - 二義的三義的情報に乏しい画は 、単に『絵葉書的に綺麗』に終始し、過剰なフラッシュバックは悉く現在への『憐憫紛いの弁明』と化す。
木村の語りは、おセンチで薄っぺらで主題に対しあまりに無頓着だ。
《劇場観賞×2/観賞券当選×2》