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散り椿のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

散り椿(2018年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

時代劇は日本人の心。
武士道は日本人の道徳です。

本作は武士道以前に、日本人の心を描いた作品であるような気がしました。

訪れた外国人が日本を離れる前に「日本のどこが一番良かったか」のインタビューでは、たくさんの人が、「日本人」と答えています。
日本に生まれて日本人の中だけで成長した私たちは、「日本人」のどこがそんなに良いのか理解できないと思います。

自分では気づいていない、そんな私達の長所、それは「明察功過」と言われるもので、日本人特有の「察する」という能力です。

来年2020年は東京オリンピックですが、オリンピック誘致に成功した際の「おもてなし」というセリフは、いまだ多くの人の記憶にあると思います。
「おもてなし」とは相手のニーズを先に感じ取り、つまり察して、サービスを提供するすること。

この映画には2つの「明察功過」が描かれています。
映画の話の前に「明察功過」をわかりやすく説明してみたいと思います。
しばし、お付き合いを。

若い人達が自分自身は日本人なんだと改めて知る事が、今後、日本人の感性を取り戻す事になります。

「明察功過」とは聖徳太子の十七条憲法(604年)に由来します。
十七条憲法、第十一条「明察功過」について説明したいと思います。いい事(功)も悪いこと(過)も明らかに察しなさい(明察)という意味です。

日本人は昔から、相手にはっきりと物を言いません。断る場合にも相手を傷つけないように「ゴメンナサイ、察して下さい」という言い方をします。

「和」が一番大切だからです。
ところが、欧米では、イエス、ノーをはっきり言います。
それをしない日本人はダメだと非難します。
日本人自身もそれが欠点だと勘違いし、よけいに引っ込み思案となります。思い当たる方も多いと思いますが、それは決して欠点ではありません。

むしろ長所なのです。
物事をはっきり言う欧米では、結果として、ケンカばかりして、あげくは訴訟沙汰となり、最後は戦争です。
察する心を優先する日本は、おかげで、犯罪も少なく非常に優しい社会なのです。

愛の表現においても、「愛してます!愛してます!」なんて、武田鉄矢以外は繰り返しません。
シラけてしまって、百年の恋も一瞬で醒めてしまいます。
やはり心にジーンと響くのは、山口百恵の「秋桜」とか、さだまさしの歌のように、情景描写のみで、聞く者に想像させる手法です。

寅さんでさえ、「それを言っちゃーお終めーよ」と、察する心を一番大切にしているじゃないですか。
ところが、欧米では、「I love you」の一言で全て済んでしまうので、往々にして味も素っ気もない。

異民族同士ですから、口で言わなければ解らないからです。
日本人は、「I love you」を言わずに愛を表現する事で、更に強く、相手の心に愛が響いていく効果を知っています。

柔道、剣道も同様です。常に相手の動きを読む事が大切とされています。達人同士の対戦では、ほとんど動きがありません。

「後の先」と言って、相手が動く寸前に、動きの方向を察して、その逆を攻撃するのです。合気道、空手も、更に、相手の動きに合わせて動き、相手の力を利用して相手を組み伏せる究極の技です。まさに専守防衛です。

話が脱線しましたが、要するに、小さい頃から常に相手の動きを見つめ、相手の心の動きまでを無条件で察する訓練をするのです。

だからこそ、殺気を敏感に感じとることができるようになります。

これこそ、明察功過、災いを避ける極意です。全世界の格闘家達が日本に来て修行する目的は、この、殺気を感じ取る能力を磨くためなのです。

さて、ようやく映画の話になります。

享保15年。元扇野藩の藩士、瓜生新兵衛(岡田准一)は平山道場「四天王」の一人で、かつては鬼の新兵衛と恐れられていた。
8年前に新兵衛は所属していた扇野藩の不祥事を追及したことが原因で故郷を追われていた。

そのため、妻の篠と共に京都地蔵院に身を寄せていたのですが、その妻が病床に伏してしまいます。
残り僅かな余命の中で篠は新兵衛に2つの願いを託します。

1つは、故郷の散り椿を自分の代わりにもう一度見てきて欲しいこと。
もう1つは、今も藩に残っている旧友、榊原采女を助けて欲しいということ。

妻の死後、彼はその願いを果たすと約束した新兵衛は扇野藩へと戻る。

武士道精神の「誠」です。
誠とは文字通り、言ったことを成すこと。「武士に二言なし」とは「誠」から来ているのです。
新兵衛は妻との約束を守る為に、故郷である扇野藩へと戻るのです。

扇野藩では依然として不正が蔓延っており、榊原采女はそれを正そうと尽力していたのでした。

かつて不正を追及した新兵衛が戻ってきたことがきっかけとなり、藩内では再び抗争が巻き起こっていきます。

不正の秘密を知る扇野藩の勘定方頭取平蔵を暗殺したのは誰なのか?という不正に纏わる陰謀がサスペンスの味わいを加えますが、それは味付けの一つであって、この映画の主題は別にあります。

妻の篠が託した願いの真意とは一体何だったのか?
新兵衛の妻、篠の想いを「察する」ことが、この映画の核となるのです。

日本では長らく武士の時代が続き、そして明治、大正、昭和という戦争の時代へと突入していきました。

そんな歴史の中で長らく尊ばれてきたのが、「死の美学」ですよね。侍の時代には「切腹」と呼ばれる、潔く自らの命を自ら断つ行為が尊ばれました。

戦争の時代に入ると、「お国のために命を捧げる」ことが尊ばれ、敵国の捕虜になって生き延びることはある種の「恥」であるかのように見なされました。

日本人の心の中にそんな精神が今も根強く残っていることは明らかです。
例えば、2018年の6月に開催されたサッカーのワールドカップにて、日本はグループリーグ第3戦でノックアウトステージ進出のために、勝利を捨て引き分けを目指すためのパスワークを展開しました。

この一件に関して、日本では「こんな勝ち上がり方をするくらいなら、勝ちを狙いにいって潔く負けた(散った)方がまだ良かったのに。」という声が多く聞こえてきました。

そんな意見を見ていると、日本人にはまだまだ「死の美学」が通底しているんだなと感じさせられます。

本作「散り椿」の舞台となった江戸時代はまさに侍の世の中で、「切腹」による潔い死に様が美しいとされていた時代。

主人公の瓜生新兵衛は愛する妻が死に、自らも後を追わんとして、美しい「散り際」を探し求めています。
彼は自分の死に場所を求めるかのように扇野藩へと帰郷するのです。

そんな彼が見たのは、友の死を無駄にはすまいと懸命に藩の不正を暴こうと尽力する榊原采女の姿でした。

かつて篠が好意を寄せていた男性でもあった采女から篠へと届けられた書簡を新兵衛は偶然にも読んでしまいました。
篠を苦しめたとして采女を斬ることを決意する新兵衛。

しかし、妻の篠の思いは全く別のものでした。
采女が受け取った篠の文に「くもり日の影としなれる我なれば 目にこそ見えぬ身をばはなれず」と書かれてありました。

采女は当初、離れても自分のことは忘れないという意味に捉えていたと話します。
実際新兵衛も同じ思いでした。

だからこそ決闘に及ぶのですが、ところが采女は続けます。

「(新兵衛の)姿が見えなくなってもお主と離れずついていくと、自分(采女)と決別した文だ」

篠は新兵衛と結婚した際に采女からの縁談を正式に断り、自分の思いは新兵衛にあると告げていたのです。

篠が死に際に託した2つの願いの真意は、彼が自分の後を追って死ぬことがないようにという思いだったわけです。

「故郷の散り椿を自分の代わりにもう一度見てきて欲しいこと。」
それは故郷に戻り、自分(篠)が残した文(想い)を知って欲しい、ということ。
椿は散っても(肉体は滅びても)また春になれば花(想い)を咲かせる。

春になり、椿を見る度に自分を想って欲しい。新兵衛にどうか生き続けて欲しい。という意味だと、私は察しました。

もう1つ、「今も藩に残っている旧友、榊原采女を助けて欲しいということ。」
それは采女と和解して欲しい、という想いがまずある。

そして新兵衛の無念を継ぎ、不正を正そうとする采女を守ることで、共に正義を貫いて欲しい、と新兵衛に「生きがい」を与えることだと、私は察しました。

この2つの篠の願いに、共通するのは「新兵衛に生きていて欲しい」ということなのです。

つまり美しい「死」が美徳とされる時代において、美しくなくとも「生きていて」欲しいというのが篠の本心だったと思います。

クライマックスで、采女は弓矢に倒れるのですが、先程、采女が篠の新兵衛へ対する深い愛を話した時、この言葉を新兵衛に言い残します。

「散る椿は、残る椿があると思えばこそ見事に散っていける」

藩の不正を正そうと新兵衛を「残る椿」として、采女自身は「散る椿」となることを決意したのか?

篠の命、そして非業の死を遂げた他の四天王の命を思ってそう言ったのか?

采女は、何度も「生きろ!」と新兵衛に言っています。

クライマックスは篠と采女の想いを「察して」、多勢の敵から生き延びようする新兵衛の凄まじい剣を見ることが出来ます。

その姿はまさに「鬼の新兵衛」!

日本人の心の美しさ「明察功過」がこの映画の物語の核であることがお分かりいただけたでしょうか?

私自身、レンタルDVDでじっくりと何度もセリフを巻き戻して、役者の表情を見て、木村大作監督は「明察功過」を描きたかったのだろうという結論に達しました。

そしてそれは監督の人物の撮り方からも感じることなのです。

冒頭、新兵衛に篠が最期の願いを伝えますが、篠が話している時、カメラは新兵衛の表情を捉えています。

話し手ではなく聞き手を見せ、聞き手の表情で全てを語らせるのです。

大切な人に真摯に向き合う時、どれだけ真意が伝わるのか、言葉を聞き手がどう捉えるか、そこがこの映画の美しさ、日本人の根底にある「明察功過」を表しているように感じます。

最後に視覚的にもわかる美しさを評価して終わりたいと思います。

まず岡田准一の殺陣です。
私は若い頃、剣道を嗜んでおりました。
この作品に登場する新兵衛の華麗な殺陣を、主演の岡田准一が自ら考案したいうのだから驚きました。
本当に恐れ入ります。

しかも今回の殺陣は監督の要望に応えるべく、何回も試行錯誤を繰り返して産み出されたもの。
人を斬るというリアルさとスピード感にあふれ、時に華麗な舞にさえ見える。

剣道を嗜んだ身から言わせてもらえば、中腰の「腰の入った」姿勢で、脛や手首など、相手の動きを止める為に末端を狙い、喉元やみぞおちなど甲冑の隙間を突く動きは、理に叶っており、大変リアリティを感じました。

木村大作監督が撮りたかった「散り椿」のイメージに合致するように、彼の作り出した殺陣は、まるでその流派が存在するかのように想像させてくれます。

木村監督が撮影した日本の四季折々の詩的で美しい映像の中で、岡田准一の殺陣は映像に馴染んでいるのです。

もちろん迫力や存在感という面で評するならば、三船敏郎ほどではないかもしれないが、「映像に溶け込む殺陣」という視点で見ると、彼の速く、無駄のない動きの殺陣はその役割を果たしています。

木村監督が望んだ「誰も見たことがない殺陣」というのは、これまでにない「美しさ」を有した殺陣だったんだと思いますし、それがこの映画の中でこの上ない形で表現されていることに感動を覚えます。

そしてやはり、撮影監督出身の木村大作監督が撮った美しい映像でしょう。

風景のみならず、この映画を観ていると、つくづく映画とは「芸術」の一つなのだと思う。

原作を何度も読んで、脚本に仕上げ、配役を決めて、さらにロケ地も決めなければならない。

事前の準備に相当な時間をかけたことが伺われる。
しかもオールロケと言う事で、天候に映画に合わせなければならない。

雪のシーンを撮るのに相当な忍耐がいったと思う。雪が降るのを待たなくてはならないから。
その上、映画は一年の四季の移り変わりをを記録している。

散り椿の前での決斗シーン、降りしきる雪の中での刺客との闘い、紅葉、竹藪の中での剣の修行模様、夏のにわか雨…etc.
ため息が出るほど美しい映像に心が動かされる。
まるで美しい絵画の中を登場人物たちが動いているかのよう。

木村大作監督は黒澤明監督や名だたる監督の撮影を担当してきた撮影のエキスパート。
だからこんな美しい映像が撮れる。
「見たか、若僧。これが映画ってもんだ!」という気概が映像から感じられる。
細かなカット割り、クローズアップ、スローモーション、CGなど一切使っていない、本物の自然の美しさがある。

CGを多用したハリウッドのスペクタクルな映画に慣れてしまった目にとても新鮮に映った。

藤沢周平原作の映画同様に下級武士を描いているせいなのか、この作品を「地味」、「退屈」の一言で片付ける評価が多くて驚く。

TVでも時代劇があまり見られない近年、「武士道」も廃れてしまったのだろうか?

この作品はハンバーガーとコーラを頬張りながら「イェー!」と拳を振り上げる映画ではない。
確かにそれは最高の暇つぶしという「映画」の重要な役割であるのだが…。
それだけでは、単純な人間性が育つのは事実。

この映画は、老舗の料理屋で出された冷えた日本酒と繊細な日本料理の素材の味を味わって「察する」趣きがある。

映像の奥から滲み出る作り手のこだわりや気概が感じられる。

日本人の道徳的な基盤である「武士道」を、日本人の美徳である「明察功過」で読み取っていただきたい。
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