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ゆずりはのkuuのレビュー・感想・評価

ゆずりは(2017年製作の映画)
3.6
『ゆずりは』映倫区分G.
製作年2018年。上映時間111分。

ものまねタレントのコロッケが本名の滝川広志名義で葬儀社のベテラン社員を演じ、笑いやものまねを封印して挑んだヒューマンドラマ。
主人公の水島役をコロッケこと滝川広志が演じ、新入社員の高梨役を柾木玲弥が演じる。
監督は『HERO』などの人気ドラマの演出を手がけた加門幾生。
原作は、新谷亜貴子の同名小説。

葬儀社のベテラン社員・水島は長年『死』と向き合う仕事を続ける中で、感情の起伏がなくなってしまった。
水島が教育係を務めることとなった新入社員の高梨は、イマドキな外見で言葉づかいもひどいが、時には葬儀社のルールを破ってでも遺族の思いに寄り添おうとする、感受性豊かな心のやさしい青年だった。
そんな高梨とともに亡き人々と遺族たちとの交流を続ける中で、水島の心にある変化が起きていく。

映画タイトルの
『ゆずりは(楪)』って、山中に自生し、庭にも植えられる常緑樹。
春に古葉と新葉が一度に入れ替わるので、譲葉「ゆずりは」の名があり、お正月の飾りにもされます。
民間で、樹皮・葉を煎じて腫れ物などに用いたり、イヌやネコの駆虫剤として外用するそうで、一年中若葉が出ると前の葉が落葉することから、親が子に代を譲る様に例えられ、感じも当て字の譲🍃葉とも書く。
縁起の良い木と知られてて、子孫繁栄の幸運を招く木として植樹されることもあり、この事が本作の骨子となってると思うし、善きタイトルだと思いました。
今作品は、リアル葬儀場での撮影ってことで、葬儀・告別式からお別れの儀までの妙にリアル。
すすり泣きが聞こえて来そう。
お話は、まぁご都合主義も否めないし、正月おせちのカタログみたいに、お話を盛り込み過ぎも加えて否めない。 
だけど、遺された家族の気持ちやら、人と人の繋がりてのを真摯に描いた良質な人間ドラマでした。
コロッケも個人的に好きだし、ちあきなおみや五木ひろしがチラつくかなぁと思ってたけど、あまりなかって物語に集中出来ました。
コロッケ(滝川広志)だけではなく、柾木玲弥、大和田紗希の迫真の演技も良かった。

飽きもせず徒然に言の葉を。
独り言みたいなもんですので、お時間が許されましたらどうぞ。

愛別離苦、愛するものとの別れる苦しみ。
怨憎会苦、嫌なやつらと顔を合わせなきゃならん苦しみ。
求不得苦、求めるものを得られん苦しみ。
五蘊盛苦、身体の衰えに憂うくるしみ。
『苦』について仏教の考えてのは、上記の苦しみもさることながら、
『生・老・病・死』が、人間の基本的な『苦』であると見ている。
愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、生・老・病・死苦あわせて四苦八苦の語源かな。
仏教はこの『苦』をどのようにしようとするのか。
『生・ 老・病・死』が、苦であると指摘するだけじゃ、それは哲学であつても宗教ではない。
仏教が宗教であるかぎり、その苦をなんとかしないといけない。
実際、仏教には、
『小乗仏教』、
『大乗仏教』てのがあります。
大乗仏教側が区別するため付けた上から目線は置いといて、
ザックリと書くならば、古い時代のインドの仏教が小乗仏教であり、 紀元前後のころにインドに興起した改革派の仏教が大乗仏教で、日本の仏教はこの大乗仏教の系統に属してます。
この、小乗仏教と大乗仏教じゃ、苦に対する解決法が違ってる。
小乗仏教においては、苦を克服しようとする。
死苦をなくそうとする。
具体的にはどうするのか。
まず、苦には原因がある。
その原因は欲望であり執着。
あれが欲しい、これが欲しいと思っていりゃ、苦になるんだと。
なぜなら、欲望は、例えそれが充足されてもなくならない。
充足されるとかえって膨れ上がるのが欲望の本質であると。
年収○千万円欲しいと思っていた人は、○千万円が得られるようになっても満足しない。
いや、一億ぐらいないと駄目や、と、欲の皮は突っ張るだけ。
せやし、苦になっちまう。
そして苦は、その原因である欲望をなくすことによって克服できると、小乗仏教はそのように教えている。
したがって、小乗仏教においては、簡単に書けば(誤りがあるかもしれないけど)、長生きしたいちゅう欲望を棄てることによって、死苦を克服するのだと。
大乗仏教は、それとはまったく違った解決法を提案してる。
大乗仏教において、『苦』て云う言葉の意味は、
『思うがままにならないこと』といったふうに解釈される。
『苦』が苦しみやとすれば、生まれることの苦しみは、たいてい忘れてるし、老いることの苦しみも、一日一日、一秒一秒老いているんやから、それを苦しいと感ずることはそないにありません。
病気の苦しみも、すべての病が苦しみではなく、自覚症状のない病気だってある。
死の苦しみは、誰も体験者がいない。
ひょっとしたら苦痛じゃないかもしれへん。
せやし、『苦』は苦痛ではないと。
『苦』は、思うがままにならないといった意味と個人的に理解してます。
我々は、
生まれること、
老いること、
病むこと、
死ぬことを思うがままにできない。
大乗仏教はそう説いている。
とすれば、思うがままにならないことを、思うがままにしなければいい。
そうすれば『苦』にならない。
思うがままにならんことを、思うがままにしようとして苦しんでる。
つまり『苦』 にしている。
そこで、『苦』にするなって説くんが大乗仏教の解決法なんやと思います。
死は、思うがままにならないこと。
死にたくないと思っても死なねばならなへんし、
平安で安楽に死にたいと思ってもそうなるかどうか。
兎に角、思うようにはならない。
なら、思うがままにしようとすんなと。
鯔のつまり、なるようになると高を括っていればいいと、大乗仏教はそう説く。
その点では、江戸末期の曹洞宗の禅僧の大愚良寛、ちゅうよりも、あの良寛さんっすが、彼の言葉がある。
良寛さんは、地震のお見舞いを受けたとき、その返信にこう書き記してた。
《しかし、災難に逢(あう)時節には、災難に逢がよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候》
加えて、もう一人。
明治時代の俳人の正岡子規はこないな言葉遺してる。
彼は三十歳になる前に脊椎カリエスになり、三十五歳で死ぬまでほとんど病床にあった。
その彼が病床にあって認めたのは、
《余は今迄禅宗の所謂(いわゆる)悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった》(『病牀六尺』) と。
『死』が思うがままにならないことなんやったら、死に方などはどうでもいいと。
いや、『生』だって思うがままにならへん。
ならば、どのような生き方をしてもいいのだと。
そうあきらめるのが仏教の死生観。
ただし、この『あきらめ』は、単に断念することじゃなく、確りと『明らめること』。
『生死』は思うがままになるモンじゃないとしっかりと覚悟することが『明らめ』やと小生は理解してる。
そう『明らめる』と安らぎが得られるが、それが難しいのも身体でわかってるかな。
でも、その安らぎこそ、宗教としての仏教によって得られるモンやともわかる。
哲学は、こないな安らぎは与えてくれへんし、むしろ難解になってくばかり、ただ、その難解なモノにも個人がより高みに向かうのも然り。
ともあれ、死に方なんてどうだっていいんかもしれへん。
室町時代の禅僧の関山慧玄て坊主の死は中々粋で、彼は妙心寺を開いた僧やけど、最期のとき、
『どうやらお迎えがまいったようじゃ』なんて云って、旅仕度をして弟子に見送られながら寺を出て行き、しかし、ものの三十歩も歩かぬ内に立ち停まり、じっとする。
『どないしはりました慧玄上人?』と、弟子たちが駆け寄って見りゃ、関山慧玄は杖にもたれたまま死んでいたそうです。
これを立亡(りゅうぼう)と云い見事な死やともとれる。
せや、明治時代の傑僧と云われた、橋本峨山(書画の大家 橋本独山のお師匠)の死は、それと対蹠跳的。
彼は大勢の弟子たちが見守る中を、 『ああ、死にとうない、死にとうない』 とわめきつつ死んで逝ったそうです。
この死に方は、世間の見方で見れば、見苦しい死、無様な死に方ともとれる。
せや、大乗仏教の考え方からしたら、別段、この死に方でもよいのとちゃうかな。
我々が己の死に方を思うがままにできるのであれば、橋本峨山的な死に方をやめて関山慧玄的な死に方にせねばならない。
でも、死に方は思うがままにならないんやし、わめきつつ死んでいく心境になれば、わめきつつ死ねばいいんやろと思う。
思うがままにならないことは思うがままにしようとしないってのが大乗仏教の考え方なんやろなぁとふと思う今日でした。

ぐっと冷えてきましたし、皆さん温かくお過ごしください。
お時間あるときは映画でホットに😁
kuu

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