新潟の映画野郎らりほう

15時17分、パリ行きの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

15時17分、パリ行き(2018年製作の映画)
4.8
【扉奥の双子】


駅構内を行く一人の男。キャメラは男の腕、脚、背負うリュックを大写しにするが その相貌を秘匿する。
男は主人公なのか 犯罪者なのか - この冒頭場面だけでは判断に躊躇う - 一体誰なのか。

少年期。通路奥で閉まる校長室扉が数度写される。果たして中には誰が居るのか。

講習室鳴り響く警報。バリケード越しの扉の奥に潜むのは誰なのか-。

リアリズム(現実的)に鑑みれば、それらの答えは造作もないだろう。
然し、現実的表層に囚われるあまり 映画的深層を見ぬ愚に堕してはいまいか -恰も「奥行知覚欠如」の如く-。


ハリーとサソリの正邪の鏡像関係(ダーティハリー)、対照化される幼馴染(ミスティックリバー)、同境遇PTSDの帰還兵に射殺されるクリスカイル(アメリカンスナイパー)…。
イーストウッド映画に暫し立ち現れるそれら双子のモチーフは、他者を自己事象勘案し 自己を疑符客観すイーストウッドの底知れぬ複眼性“慧眼”をまざまざと看取させるが、本作を読み解く端緒もまた この「双子」「複眼」である事は自明であろう。

施される宗教そして教育に対し、盲目準拠すればそれは“洗脳”に過ぎない。疑符を持ち 熟慮考察/意思決定をした上で 結果責任を負う - それが“自己屹立”だ。

問題児の烙印を捺されようとも安易従属しない - あの校長室扉の向こうには(選択可能性として)信念無き盲目準拠者と化した“もう一人の自分”がいるのだ。

教官の教えを聞かぬ馬鹿と揶揄されようと信念を貫く - バリケード扉の向こうには、教育に何らの疑符も持たず ただ付き従うだけの“もう一人の自分”がいるのだ。

遡及して冒頭 - 駅構内を行く男の曖昧/不明瞭な姿は、主人公でさえ 疑符無き盲目準拠者に堕す〈可能性〉があった事を示す。
翻せば、テロリスト青年も 宗教/教育に疑符を持ち“自己屹立”していれば 英雄であったかもしれず、正邪はどこまでも紙一重だ。

思い出そう、それまで秘匿されていたテロリストの相貌が 初めて我々に開示される場面を - トワレット扉奥の“鏡”に映る“分身”の姿を-。

「運命 」- 天命に依って定められ 人の意思及ばぬもの - 往々“受動/服属的”な概念だ。

だがイーストウッドは云うだろう。神が示す絶対的答えに盲目従属せず、自ら信じる答えを確立する事(主体/自立)こそ運命だと-。

それは「インビクタス 負けざる者達(′09)」の要一節『私が我が運命の支配者、我が魂の指揮官』と遥かに響鳴する。
イーストウッドにとって運命とは 他者に与えられるものではなく、信念と自立と行動に依って自ら切り開くもの。
顧みるは(洗脳/服属に堕ちたかもしれぬ)自分自身の鏡像、打破すべきは自分自身の分身なんだ。



〈追記〉

冥府よりの蒼白馬 -「ペイルライダー」。闇間を走り去る白馬 -「アメリカンスナイパー」。横たわるイーストウッドを覚醒させる涅色馬 -「人生の特等席」…。運命の召喚者として表徴される“馬”は、今回 深い陰翳を纏う彫像として現れる。

十字架、星条旗、そして双子…。
部屋に掲げられたポスター「硫黄島からの手紙」が 硫黄島二部作“双子の片割れ”である事は言うまでもないだろう。

実事件後時を待たぬ映像化、更に本人起用と、配慮/制約多き材である事は容易に伺えるが、その制約にもかかわらず 当然の如く「イーストウッド映画」として屹立す不動の筆致。
校長室、講習室、そして列車奥トワレットと、韻を踏み続ける扉の用法。涓塵注入されるブレッソン シネマトグラフの血。奥行知覚の仄めかし…。それら聡明が、まるで“セルフィー”を撮るかの如く易々と行われてゆく様に、イーストウッドの底知れぬ深い眼差し(奥行知覚)を感得し ただ〃心服する。



〈追々記〉

メディアが喧伝す「実本人起用」だとか「究極のリアリティ」だとかに追随し、本作リアリズム部分を誉めそやす事なぞ実に容易い。
皮肉にも その事が「教育を妄信し 表層しか見ぬ奥行知覚欠如」の宣言でもあるのだが-。

イーストウッドは『眼に見えているものに依って、眼に見えないものを映し出す』 。

他者を鵜呑みするのでなく 深層を見、自己屹立する。

誤読の謗りを懼れるな。

馬鹿と揶揄されようと信念の侭に-。




《劇場鑑賞×2》