せーじ

この世界の(さらにいくつもの)片隅にのせーじのレビュー・感想・評価

4.9
246本目。

幹事館である、テアトル新宿で鑑賞。
もちろん満席。
下は20代、上は5、60代の方々までという幅広い年齢層で席が埋まった。

エンドロールが終わり、例の"右手"が手を振る映像が映し出された直後、客席からは自然と拍手が沸き起こり、自分もそれに続いた。
明るくなったが、立てない。やっとの思いで劇場を出て、手近な椅子に腰かけると、ようやく大きく息をつくことができた。
三年前に観た時とは明らかに違う、なんとも言えない名状しがたい感情にまんまと溺れてしまった。

この作品を鑑賞し終えるまで、完全に忘れ去っていたことなのだが、自分は「要約」をして「そうだと思い込む」のが悪い意味で得意な人間だ。月に何本も映画を観て感想を書き散らかしたりしていると、登場人物の人となりや行動をついつい自分の思考ロジックの中で単純化してしまって、わかりやすく、なんなら自分の好みに合うように都合よく捉えようとしてしまう。だがそれは果たして、本当にその登場人物のことを正確に読み取っていたのかと言えるのだろうか。そんな訳はないよな、なかったはずだろうと、今日この作品を観て嫌と言うほど思い知らされてしまった。

…今まで"いくつもの"映画を観ておきながら、そこから一体何を読み取ってきたというのだろう、と。

前作の感想では、登場人物の周囲に広がる「世界」を、徹底的な取材と考証によって実存を持たせることで、登場人物の実存をも担保しようとしていたと書いたが、本作はそこから更に一歩踏み出し、登場人物の行動や思考などによる人間性そのものにまで実存を持たせようとしているように感じられた。その描き方は、前作と全く同じ場面・同じセリフであるにも関わらず、全く違った読み解きが出来てしまうことなどからもわかるように、凄まじいレベルにまで及んでいる。今までついつい自分はすずさんのことを「天然で、ふわふわとしていて、突拍子もない言動をするチャーミングな女性」いや、なんなら「どんくさくて、トロい女」だと決めつけ、思い込んでいたところがあったはずなのだが、本作を観たことで、その認識は完全に洗い流されてしまった。

そうだった。人間ってそうだった。
こんなにも色んな"色"がある存在だった。

本作では、もはやすずさんや周作さんをはじめとする登場人物は、単なる「アニメキャラクター」や「映画の登場人物」であるという存在を完全に超越していた。前作の感想に引き続き繰り返すが、この作品は完全なフィクションであり、登場する人物はほとんどすべて架空の存在である。にもかかわらず、前作以上に「世界」がさまざまな形で忠実に描き込まれ、それに加えて人間性の単純ではない揺らぎがすずさん達に織り込まれたことで、より彼らが実在する人々であるように感じられたのだ。

だから自分はこう思ってしまう。

ごめんね、すずさん。
水原の様に自分の都合のいい捉え方をしてしまっていて。

※※

ただし。
実は本作の登場人物のなかでただ一人、ほとんど実存が感じられない様に描かれているのではないだろうかと感じてしまった人物がいる。
リンさんだ。

原作を読んだ時からリンさんのことについて、自分はほとんど理解をすることができなかった。確かに、すずさんの視点から明かされる"リンさんについてのいくつものこと"は劇中で明示されてはいるのだが、そのどれもが状況証拠に過ぎなく、本人の口から直接具体的に真実が明かされている訳でもない。そもそも、あの夏の日に草津ですずさんが見た"彼女"が、リンさんであるという客観的な証拠は何ひとつ本作で語られている訳ではないのだ。

あるのはただただ儚く、ふわふわ、ひらひらとした彼女の物腰と、彼女の口から語られた謎めいた言葉の断片だけ…

自分はどこかで、本作がつくられると聞いてから、前作を何回も観ながらリンさんの"そういう部分"が、もしかしたら明らかにされるのではないだろうかと思い込んでいたところがあったのかもしれない。
甘かった。
わからないリンさんは、わからないまま、そこに投げ出されていた。
作品世界がこれ以上無いくらいに実存を持ち、主人公をはじめとする登場人物がより深い人間性を得たというのに、リンさんの存在だけはそれを拒むかのように実存を持とうとはしない。まるで「わからないということそのもの」が彼女自身の実存であるとでも言うかのように。

そうだ、そうだった。
実際の人間社会でも、見ず知らずの他人の実存を余すところなく知ることなんて簡単に出来やしない。自分自身にも、すずさんにとってのリンさんの様に、断片的にしかその人の事を知り得ない「知り合い」は無数にいるじゃないか。そもそもそういうものなのに、自分は今まで何を全部知っているかのような顔をして生きているのだろうか。バカなんじゃないのか。

そんなことをつらつらと考えながら、終バスが終わった道を歩いた。
この作品を知ってから三年あまり、まさか自分の中で、こんなにもリンさんの存在が大きくなってしまっていたとは思わなかった。
彼女の出自や生きてきた環境を想い、そしてそれらが「わからないまま」理不尽な暴力によって失われてしまったという意味を考えると、それ以上は言葉が継げなくなってしまう。

※※

つらつらと書いてしまいましたが、おそらく今後も何回も観ることになるだろうし、折に触れて考えていく作品になると思います。
ありがとね、すずさん。
これからもよろしくね、すずさん。
せーじ

せーじ