晴れない空の降らない雨

この世界の(さらにいくつもの)片隅にの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

4.6
 全体的に原作のもつ苦みがよく出ている追加版となった。面白いのは、無印版に対して追加版が一種の「どんでん返し」みたく見える点だ。つまり、無印版は「日常のありがたみ」みたいな話に要約されそうなところを、この追加版で「その日常が何を犠牲にしてきたか」「人間関係(とくに夫婦)のままならなさ」がよりハッキリ示されたと思う。
 
■白木リンについて
 何より、やはり白木リンあっての『この世界の片隅に』ということを認識させられた。
 この作品において、(むろん不幸中の幸いという意味だが)すずは滅茶苦茶ラッキーな人間である。そもそも嫁ぎ先が恵まれているが、なんといっても原爆と2度もニアミスしている。確かにすずと晴美が不発弾に巻き込まれなかったら、広島への出戻りの話自体がなかっただろう。しかしその場合、彼女は投下後すぐの広島に救助に赴いて被爆した可能性が高い。
 被爆後の様子が追加されたご近所の知多さんのように、「もしかしたらすずがこうなっていたかもしれない」ことを示す犠牲者が何人も存在する。たとえば、晴美、実家の家族たち、小林夫婦。そして白木リンは、「普通の人びとの日常」から排除された存在でありながら、「もしかしたら周作の妻だったかもしれない」存在として、人生のifを最も想像させる。これは、玉音放送後に太極旗をみたリンの独白(原作より婉曲的だったが)とも関係しているわけだ。これが「ありがたい日常」の影の部分である。
 
 それだけでなく、リンは、周作に対する水原哲と対をなす存在でもある。もし周作がリンと結ばれていたなら、おそらくすずは水原と結婚していただろう。リンがしっかりと描かれたことで、すずの「選ばなかった道」としての水原哲の存在もより浮き彫りになった。それに伴い、すずの心中も複雑なものとなり、一筋縄ではいかない夫婦関係というものも描かれていると思う(夫婦の問題は、こうの史代作品に共通してみられるテーマである)。
 加えて、拾った孤児は北條夫婦の子どもであると同時に、径子にとっては晴美の代わりでもあったわけだが、加えて、このバージョンをみた観客にとってはあたかもリンの生まれ変わりのようにも感じられると思う(ちなみに右腕の欠損を共通項として、すずが孤児にとって母代わりとなることも本作のテーマを担っている)。
 
 そういうわけで、白木リンの存在によって、一気に作品のコクが増しているのである。
 
■リンへの違和感について
 ただ、以上はやはり解釈を要することで、こうした暗部をあからさまに突きつけてくる作品ではない。この点では、反戦漫画の金字塔『はだしのゲン』と対照的である。これは原作者の戦略であったとも、元々の作風がこうだったとも思われる。何にせよ本作の異例のヒットの背景に、こうした物腰柔らかな態度があったことは間違いない。
 しかし、それは結局のところ、どす黒いものをオブラートに包んで受け入れやすくしただけのことではないのか、という疑念も、無印版の公開時に若干脳裏をよぎったものである。
 そして今回、ある種の違和感を表明しているレビューを見かけて、あながち間違いでもなかったと思った。そうした違和感が鋭くも白木リンの人物像に向けられているのは、上述のとおり彼女が本作のどす黒い部分を担う存在でありながら、そこにフタをするような、あまりに清らかな好人物として描かれているためだろう。
 
■3コマ打ちについて
 片渕監督いわく、コマ間の動きが小さければ、3コマ打ちでも綺麗に動いて見えるそうである。これが1コマ打ちだと、あまりにヌルヌル動いて気持ち悪い。とくに日常芝居、なかでも本作のように動作がゆったりしている人びとの日常動作を描くのに適しているのだと。
 しかし自分には、カメラがキャラに近いときなどは必ずしも滑らかな動きとは見えなかった。予算やスケジュールのことを無視すれば、日常動作を丁寧に見せたいならやっぱ2コマが王道ではないか。などと素人は思ってしまう。
 ただし、本作に限っては、3コマもなるほど間違いでもない、とは思う。これは、いま紹介したように、すずを始めノソノソした動きが似合うキャラが多いことがひとつ。もうひとつは、すずの描いた絵が留保なしで画面=現実に直接あらわれる、マジックリアリズム的演出がしばしば見られる本作には、フィクション性の露出を許容する側面があることだ。なので、絵であることの露呈も味といえば味……と言えなくもない……? まぁ、どのみち意識しなければ気にならないレベルではある。