新潟の映画野郎らりほう

ラストレターの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

ラストレター(2020年製作の映画)
5.0
【廃校舎現れし初恋の亡霊】


薄手のワンピースを身に纏った鮎美(広瀬すず)と颯香(森七菜)に、夏の陽光が照射し 彼女達の姿越しに後景を透過させる。
夏風がワンピース裾を幽玄に靡かせ、醸成される胡乱且つ儚げなイマージュ。

それらを見て思う、彼女達はやはり『生者ではない』のだろうとー。
鮎美だと思って私が見ているのは未咲(広瀬/二役)であり、颯香だと思っていたのは裕里(森/二役)なのだと。
現代の少女達が『成りすまし』を行っている様に思えて、逆に 未咲と裕里が 鮎美と颯香を『演じている』のだとしたら…。

“時”、そして“死”に着目し各場面を振り返ってみたい。



鮎美には未咲の亡霊が憑依している。
超高速度撮影で捉えられる『葬儀直後に寺を後にする“瞬間”』。帰宅後“放心自失”となる鮎美は、文字通り『鮎美が心を放し自らを失う』意である。父(庵野秀明)が指摘する『浄めの塩の失念』等、序盤から亡霊/憑依示す因子が頻出している。

次に『颯香=裕里』を考察しよう。裕里は存命(松たか子)であり 依って未咲の様な霊魂とは考え難い。
私には『時を越え現代に現れた“過去”の思念体』に思えた。言わば“記憶の、初恋の亡霊”である。
想い出そう - 葬儀から帰宅した遠野家で、時刻む柱時計の音が家中に谺していた事を。
颯香が繰返し口にする『家に帰りたくない』 ― それは裕里の『過去へ帰りたくない』のダブルミーニングではなかったか―。



【私小説】

電子メールや通話アプリが、他者とのコミュニケーション=外へ向いているのに対し、同じ文字情報伝達手段である“書簡”は(そのリアクションの遅緩故)時として、自己の内へ〃へと向かう『自己完結な独白/私小説』の様相を呈し易い―。

私小説、亡霊/過去/記憶との往復書簡、自己との対話…。
それらを鑑みて諒解する ― 全ては、死と過去に囚われ続けた男(福山雅治)の心象に、亡霊と記憶が響鳴した世界なのだと。



【最期のはなむけ】

忘れられない事がある。忘れてはいけない事がある。そして、囚われ続けてはいけない ー 忘れなくてはいけない事がある。

中山美穂と豊川悦司は“経年”の象徴だ。
もうこんなに時が流れたんだよ と。死と過去に囚われ続け 忘れられぬ男に、もう忘れて 今を そして未来を生きていいんだよと(深層心理上で)訴える。

その事が男を、本当の過去と死に“向き合わせる”。

忘れる事は 蔑ろにする事じゃなく、前へ 未来へと進む事。



傘を手に、男と少女達が見つめ合う。
それが、此岸に立つ男から 彼岸に立つ少女達へのラストレター“最期のはなむけ”であり(現世卒業への送辞)、同時に 今まで後ろ向きだった男自身への最期の“手向け”であるのだ。



宮城県、死、過去、廃墟、水のモチーフを並べながらも、決して東日本大震災の直截俎上とはならないところが、岩井俊二自身の『もう過去に囚われず 今を 未来を生きよう』とする宣明にも思えた。

画面の隅々に 郷里への無上の思慕と哀悼、鼓舞激励が漲っている。


未来は、輝いている―。




《生涯最高峰級認定/劇場観賞》