アメリカっぽい。
「ゾンビ」を使って再び開拓時代のような自然状態を作り出し、アメリカ的な自主自治自己責任な、極限の自由と極限のリスクにさらされた自分の存在を喜んでる感じ。
『ノマドランド』の精神。
平和主義的なZ世代をアホっぽく描写してはいるけど、たしかにこの環境で「銃や暴力とは無縁のコミューンで平和な暮らし」なんて辛辣なアホ描写なんだけど、実際現実世界では平和について考えることはもっと必要で、なんなら自分的にはもっと辛辣で、彼らは場当たり的に都合の良い判断をしているだけで、「平和」なんて口で言うだけで考えてもいない、と思ってる。
ククルスドアンのときにも書いた感じの見立て。
「正義」のために普通に戦いそう。
そもそもほとんどの人間はその環境に適した合理的な行動を取る。
良い意味でも悪い意味でも。
そこから外れるのはかなり難しい。
そういう意味では「実践」までいってる”映画の彼ら”は結構外れてるのでそこまで辛辣ではない。
だけどゾンビランドでは「Z世代」や「平和主義」の限界、そもそも「平和の限界」を描いてしまっている。
映画のノリはそんな感じで、政治的に正しくない描写がかなりあった。
頭の良いゾンビにホーキング博士と名付けるのはさすがに引いたけど。。
引くこと自体が問題な気も?
ホワイトハウスで手に入れた大統領専用車ビーストを、「体制側」ということで乗り換えてしまう話とか、、「体制側」というだけで頑張って乗り捨てる、その理念先行っぽいところが、もろにダメなリベラルを描写できていて面白いんだけど、そういうことで良い悪いを決めて排除したり称賛したりするのが、この映画業界って感じがするのだけど、、、これは大丈夫なのか。
自主規制的にこういう映画に出たらリベラルに叩かれるとかは無いのかな?
保守称賛というわけでもないけど、まあまあ保守っぽいものエルヴィスとかモンスタートラックとかは活躍する。
メタリカとか。
「フェイクファーだから!」と主張するヴィーガンがすごいアホっぽかったり。
いやマディソン自体は良いキャラなんだけど。
リトルロックはあからさまに物語から外してきている感じ。
たしかに10年がたって立ち位置が微妙なのと、前作では『リトルミスサンシャイン』の子役っていうイメージだったけど、今作では『スティルウォーター』での役柄に近いパチンコ屋に居そうな雰囲気が出ていて、ドラマで三人の誰かと絡ませるにしても、そのドラマのテーマも場末感があるものしか成立しなそう。もう少女枠ではなかなか成立しない。一応動機として、「同世代の~」とか未熟な面は使ったけどそれを全編やるのは無理。
マディソンは吹き替え版では安達祐実らしい。
「ポストアポカリプス」のところなんて言ってるのか聞いたら、「目録時後」で、黙示録は知っていてポストアポカリプスは比較的伝わらないっていう判断なのか、ポストアクロポリスでもいける気がするのだけど。
字幕と吹替で若干考え方が違う。
そもそも黙示録を知らないと目録時だと何言ってるのかわからないが、ポストアクロポリスなら日本人でもなんか横文字で間違えてる雰囲気が伝わる感じもするが。。。