新潟の映画野郎らりほう

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

2.0
【エクリチュール】


成島出「八日目の蝉」に、井上真央が自転車で坂道を 脚を広げ下っていく場面がある。
終盤、永作博美も同様に 自転車に脚を広げ乗る場面があるのだが、ここで我々は 全く血が繋がらぬ二人が 同じ動作をする「同構図反復」に依って、この二人が 記憶/身体性を継承した“真の”親子である事を諒解するのである。
斯様に同構図反復「韻を踏む」で“対照”を際立たせるのは映画語りの基本である(但し観賞者にもそれなりの認識力と観賞眼が必要となろうが)。

対して本作。
時制を一度解体し “窓枠”だとか“鍵”或いは“階段”等の構図的/ディティール的共通項に依って 各場面を“纏め直し”物語が語られるのだが、つまり同構図反復の“対照元”を認識出来ぬ観客には有難いのだろうが、私には 唯々 余計な御世話な上 随分不恰好な作品構成なだけである(女性著述家、エクリチュール、自伝的小説、虚実判定不明、時制の往来、メタフィクション。それら因子に加え、シアーシャローナンとくればジョーライト「つぐない」があるだけに 一際 本作の無粋ぶりが目立つ)。

抑 観客自らが対照/反復に“気付く”、その映画の肝を 映画自身が開示してどうするのかと。正答を同時に識らされるクイズの如し。



〈追記〉

劇伴が喧しい。

ジョー(ローナン)が、意を決し小説を書き上げてゆく場面では、その彼女の決意や熱情の顕れと為る筈の筆記音や原稿用紙擦過音が 過剰な劇伴に依って掻き消されている。

全編劇伴塗れでは、鍵盤打弦器演奏場面の その音色も弱めてしまうだろうに。
上映中は御静かに願いたいものである。



床一面に並べられた原稿用紙を何度も入れ換える描写は、本作品自体の「自制往来」を示唆するものであり「メタフィクション」「小説」の暗示でもあるが、私には「乱丁 落丁の小説を掴まされた」印象である。

エンドロール最後に『乱丁 落丁は送料当社負担で御取替え致します』の一文を是非出していただきたい。




《劇場観賞》