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悪の偶像のrayconteのレビュー・感想・評価

悪の偶像(2017年製作の映画)
5.0
韓国映画は欧米の技法と独自の仄暗い文学性によって名作を生み出し続け、アカデミー外国語長編映画賞をポンジュノ監督「パラサイト」が受賞したことからも、今もなお足踏みすることなく進化を続けている。
本作「悪の偶像」も、「パラサイト」に劣らない娯楽性と文学性の両方を高い次元で具現化した傑作だ。

ある轢き逃げ事件によって死亡した被害者。加害者の男は死体を遺棄するため一度は自宅に被害者を運び込むのだが、国会議員である父・ミュンフェは罪の重大さを鑑み、元通りの現場に遺体を戻して轢き逃げとして息子に出頭させる。
だが、被害者の父・ジュンシクと面会し、ある事実が発覚する。事件時、被害者の妻・リョナが一緒にいたというのだ。彼女はまだ見つかっておらず、さらには妊娠していた。
ミュンフェにとっては事実隠蔽の目撃者であり、ジュンシクにとっては我が子の忘れ形見を宿すリョナ。
真逆の立場の二人が、リョナの捜索を始める──。

ミステリーであり、タイムサスペンスでもある見事な着想で、あらすじだけですでに心を掴まれてしまう。
その通り、序盤は十分にサスペンスとしての娯楽性を味わえる。
しかしこの作品の奥深さはその先に待っている。中盤から物語は突如その姿を一変させ、「信仰」をテーマとした人間ドラマ、あるいはホラーとなってゆく。
予測のつかない転換と着地。だが決して強引でも抽象的でもなく、娯楽作として綺麗にテーマを纏めている。
良作数ある韓国映画の中でも、類い稀な完成度だ。

ここから先は、僕なりの解説(解釈)を。
この物語の着地点、つまりテーマはタイトルが示す通り「偶像崇拝」に関するものだ。
ミュンフェとジュンシクの社会的立場や人間性は対照的であるが、二人とも根底には同一の偶像に対する信仰を持っている。
それは「善」だ。
「悪」とは「善」という対象があって初めて成立する。
ゆえに、悪は悪を自覚できるが、「善」はそれのみで成立できるため行き過ぎていたとしてもそれを自覚できないのだ。
たとえば、テロ行為に走る「確信犯」のように。
以上を念頭に置けば、映画の登場する全てのモチーフが理解できる。

・リョナの存在と、英雄像の破壊
リョナはこの作品の最重要人物だ。
ジュンシクにとっては障害のある息子と結婚してくれた聖母のような存在であり、まさに「善」の化身である。
物語後半の展開を観た人なら、リョナがジュンシクの認識とは真逆の「悪」の化身だと思う人もいるだろう。
だが、ジュンシクの認識は誤認とは言えない。ある意味では正解だからだ。
リョナは「無垢」な存在なのだ。無垢ゆえに残虐性を持ち、多くの人が道徳という後付けの倫理でどうにか抑えている行為を平気で行う。
リョナは決してジュンシクを騙していたわけではない。確かに彼に対して言っていない秘密はあったが、リョナを善良な優しい人物だと思っていたのはジュンシクの思い込みだ。
なぜジュンシクがリョナを疑わずいたのか、それは息子の存在である。
ジュンシクは劇中、息子の射精を手伝っていたことを告白する。(マスターベーションのやり方すらわからないことから、息子は知的障害者なのだろう)。そしてこれは、ジュンシクにとって苦痛だった。
ジュンシクが辛い日々を耐えぬくためには、「善」への信仰が必要だった。自分はいいことをしている、これは愛なのだと思わなければ精神を保っていられなかったのだ。
そこへリョナが現れる。彼女を善の化身だと思い込むことで、リョナが何らかの利益目的で近づいてきたという可能性を念頭から排除し、苦痛の根源である息子を自分の手元から離したのだ。ジュンシクにとってリョナは、彼自身のミューズだったわけだ。
物語終盤でジュンシクが英雄像を爆破するという一見突飛に見える行為は、彼の中の偶像が意味を成さなくなったことと、「信仰」による盲目がもたらした息子に対する罪を認めるための儀礼だったのだと納得がいく。
そしてこれは、ミュンフェの顛末にも同様のことが言える。

・ミュンフェの悟り、「匂い」、ラストシーンの意味
ミュンフェは議員としてクリーンなイメージで民衆から支持を受ける「善」を纏った存在であった。
そしてミュンフェは、票を得るために善を演じているわけではなく、基本的に善良な人物であり、自分自身もそう自覚していた。
人を殺した息子に出頭を命じたのも、死体遺棄未遂の事実を隠蔽しようとしたことも、すべては家族を案じる善意からきたものなのだ。
証左として、彼は善のためであれば議員職を辞することすらためらわない。
だが物語ラストで、ミュンフェは信仰宗教らしき団体の指導者として演説を行っている。その口調はかつての理知的な彼とはかけ離れた熱意と狂気に満ちたものであり、不可解な言語はおそらく独自のものだろう。
ミュンフェを変えたのは、やはりリョナである。
ミュンフェはジュンシクに先立って、行方不明となったリョナを見つける。
彼女を口封じのために殺害しようとするのだが、しかしミュンフェは「善良に生きろ」と言い残して彼女の殺害を中止する。
その後ミュンフェはジュンシクを選挙チームのひとりとして迎え入れる。結果的にジュンシクは金銭的に安定し、リョナの子を迎え入れる準備を整えることが出来た。
ミュンフェの息子がジュンシクの息子を殺さなければ、この状況は有り得なかった。つまりミュンフェは、息子が犯した罪すら何らかの「善」の入り口であったと定義づけるため、あえてジュンシクと繋がりを持ったのだ。それらはすべて、「自分が善良である」というミュンフェ自身の信仰を守るための行為なのだ。
ミュンフェを疑うものは誰一人いなかったが、彼の本質に唯一リョナだけが気づく。
それは「匂い」だ。リョナはミュンフェに「どこかで嗅いだ匂いがする」と言う。それは「腐臭」であり、自分と同じ匂いだと。
「無垢」であるリョナだけは気づいていたのだ。ミュンフェは善良を盾に様々なことを行うが、その建前を取り払えば、感情のままに人さえ殺す自分と何一つ変わらない人間だと。
ミュンフェはその瞬間に気づく。「自分が善良である」という自身を支えてきた認識が、自分の行ってきた行為とは何の繋がりもないことに。
そして、その信仰はそもそも残虐な人間である自分の本質から目を逸らすためのものだったということに。
ミュンフェは自身のアイデンティティを覆す現実に直面したからこそ、ラストシーンのような未来へと辿り着いたのだろう。

・「悪の偶像」とは
映画を平坦に観ると、いい人だと思っていたリョナが実は「悪の偶像」だったのだと誤解する人も多いだろう。
だがそうではなく、ある偶像への信仰を理由に罪を犯すこと、それそのものが「悪」であると指摘しているのだ。
「悪」とは、何を信じてそうしたかという思想面ではなく、何を行ったかという事実においてのみ判断されるべきだ。
どんな思想を持っていようと、他人を傷つけるのはダメだというように。
ダメなのは誰でもわかる基本的なことなのに、実社会においては横行するこの「確信犯」というものに対するメッセージとして、監督はこのタイトルを選んだのではないだろうか。

つい熱が入り長くなってしまったけれど、これでもまだ足りないほど濃厚な作品だ。
単純にハンソッキュとソルギョングの名優二人による怪演は見応えがあるし、サイコスリラーものとしても秀逸だ。
キムギドクが亡くなりとても悲しく思っているが、このような作品を生み出す素晴らしい監督とそれを支える韓国映画界がある限り、杞憂はないだろう。
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