晴れない空の降らない雨

あした世界が終わるとしてもの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

1.8
新年初、映画館。
初、アニメ映画。
初、駄作。
 それも、幸福の科学のアニメ映画のラインナップに紛れ込ませても違和感ないクラスだった。監督は、宮崎駿の『毛虫のボロ』制作のドキュメンタリー番組に出演していたCGスタッフ(前髪で片目隠していた人)。
 もっとも、作り手がストーリーや世界観などには微塵の興味もなく、単にセルルックCG屋としての力量を試したかっただけであることは分かる(というか、そう解釈しないとこちらの理性が壊れる)。しかし、それにしても限度があるというか。
 
机に突っ伏す無気力系主人公(男子高校生)。
隣のクラスから心配しにやってくるヒロイン(黒髪ロングヘア)。
冷やかすクラスメイト。「そ、そんなんじゃないって」的な照れた否定。
明らかに聞こえる距離で主人公の死んだ母のウワサをするクラスメイト。
 
(早くも新海誠の初期作品と同じ異臭をかぐ。)
 
昼休みに校舎裏にヒロインを呼び出して告白するチャラ男。
「嫌いじゃないなら好きってことじゃん」という謎論理で強引に迫るチャラ男。
たまたまそこにいた主人公がクールに制止。
 
(ほぼ間違いなく地雷を踏んだことを悟る。)
 
帰り道、夕陽でやたら燦然と輝く公園を歩く2人。
主人公「なんであいつと付き合わなかったの。バレー部のエースだし、かっこいいし、頭もそこそこいいし」
ヒロイン「それは…(セリフ忘れた)…察してよ。そろそろ私、待ちきれないよ」
主人公「……あ、あのさ、明日デート……しませんか」
 
(開始10分程度でサンクコストという言葉について考え出す。)
 
 よくもまぁ「私の想像の発生源はアニメとエロゲとラノベだけです」と堂々告白するような、かくも未昇華の妄想をぶちまけられるよな、と。一番苦手なタイプで、こういうものに出会うと、何とも暗い気持ちになる。こんな乳幼児的願望充足を「私の作品です」と平気で世に送り出せる人間がいる事実に愕然とする。
 
そして話はいきなりSFに。
ナレーション(古谷徹)「第二次世界大戦中、旧日本軍は物質転送の実験を云々かんぬん並行世界がどうのこうの」
自分「うんうんそうかそうかよしよしがんばれがんばれ」
 
 
■セルルックCGについて雑感
 
 さっき書いたように、本作はセルルックCGの力試しみたいなもんで、要は和製アニメの美少女キャラをどれだけCGで再現し、手描きアニメよりもよく動かせるかが試されている。
 海外では『ヴォルトロン』『RWBY』、日本でも『シドニアの騎士』や『蒼き鋼のアルペジオ』あるいは宮崎駿ジュニアの『山賊の娘ローニャ』などでセルルックCGアニメの努力が続けられているのは知っていた。
 が、いずれも作品を観たことがなく、観ていたとしても自分には相対的に評価するほどの眼識はない。そのうえで、まず良かったほうを挙げるとアクション。同画面に作画とCGが同居する場合と違い、キャラクターと他の部分に違和感がない。CGだから絵の情報量を落とすことなく、複雑怪奇かつ超スピーディな動きを物理演算で表現でき、見栄えするアングルやカメラワークも自由自在。とはいえ、感激するほどでもない。また、それほどアクションに時間が割かれているわけでもない。何年も前に観た『楽園追放』からどのくらい進歩したのかは自分には分からず、また技術的進歩なのかスタッフの腕前の問題なのかという問題もある。
 逆にダメだったのが日常芝居で、動かしすぎが気持ち悪かった。日常パートは監督自らが修正しまくったそうだが、おそらくはそこで遺憾なく解放された自己顕示欲によって、キャラの身体や髪などの揺れが過剰になり、不気味の谷に近い現象が起こっていた。
 というかギャルゲーっぽい。手描きアニメでは多用されない、真正面からのバストショットが頻繁に現れるが、この絵面はどうみてもギャルゲーの立ち絵(か、小津映画)。そういや、ギャルゲーではないが、 2007年発売の『グリムグリモア』というタワーディフェンスもののゲームですでに、会話パートの立ち絵がゆらゆら揺れていて感心した記憶がある。
 和製RPGなどはアニメ調デザインのキャラをCGで動かす技術を蓄積してきているはずだから、今後ゲーム業界からの技術移転が続きそう。
 
 最後にちょっとフォロー入れておくと、この監督の経歴は悪くないし、宮崎駿に紹介されてくるのだからCG屋としての腕前はあるのだろう。制御できる人が上につけば、マトモなものを作れるのではないかと思われる。