新潟の映画野郎らりほう

運び屋の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
5.0
【絶命忘れ舞い戻った亡者が見し夢】


相貌に無数の傷を負ったアール(イーストウッド)が 車両走行中、誰も座っていない筈の助手席を静かに凝視する。
彼の瞳には、一体何が映っていたのか-。


そして恥じらい無く云おう。私の人生で、最も映画の深淵に到達出来たと…。



車内ルームミラーで“後方”を気にし“振り返る”アール。車外に出たところで“後方からの呼び掛け”にまた“振り返った”彼は、その後の咆哮に“もう一度振り返る”事となる-。

彼は一義的な後方を振り返っているのではない。自らの過去を -自分自身を- 回顧/振り返っているのだ。

過去への旅路 - イグニッションキー回す度 -車両走らせる度に- 蔑ろにしてきた彼の過去が悉く好転してゆく。
その明け透けな御都合主義に『マッチに焔灯す度、幸福な夢立ち現れる寓話』を想い出す。

…彼は、絶命忘れ死地より舞い戻った死者だ…。


想い出そう - 彼が花畑〈天国〉から立ち去っている事を。
『神は救い給う…』と流れるカーラジオ拒絶する事を。
ハンドラーが指摘するフラフラと定まらぬ運転は〈亡者の彷徨い〉であり、トランクを覗き込む行為は後に別車両に依ってそれが〈棺桶〉であった事が明かされる。
棺桶護る二匹のケルベロス -地獄の番犬- の存在(警察犬と噛み付く仕草)。

『苦難が容易に好転する御都合主義』に込められた『眼に見えるものは、実際上の出来事ではなく 主人公の願望の可視に過ぎぬ事の示唆』と『死の仄めかし』に、ある一つの映画が脳裏に過ぎる - フランクキャプラ「素晴らしき哉、人生!」が-。

品評会で、群がる人々にアールが呟く「wonderful(素晴らしい)」と、ジェームズスチュアートへの指摘がそれを暗示する。

左遷されたと思しきベイツ捜査官(クーパー)は〈二級天使〉思わせ、主任(フィッシュバーン)の言う『手柄を立てれば“より上に行ける”』も黙示的だ。場所は造営建造物上層階〈天上界〉。そのやり取りで、ベイツの相貌半面を深い影が覆っている事に注目したい。
影=死。死を纏い、死司る者としてベイツはアールを追う。死を与える為に、既に生きてはいない事 自覚させる為に。
保護証人を望む男や ハイウェイ上で誤認/停車させられる男が、極度に死に怯えるのもベイツが死の使いである証左に他なるまい。
DEA本部の薄暗く長い廊下は 彼岸と此岸を繋ぐ隧道であり、ベイツは一瞥の後に 奥の闇黒へと消え入ってゆく-。

最終極、周囲に何も無い真っ直ぐな路を逝く一台の車両が空撮で捉えられる。〈冥府〉へと誘われる様に…。

その刹那、アールが誰も座っていない筈の助手席を眼差す。
彼は遂に気付く、自らの死を-。

映画内人物にとって存在しない筈の キャメラ/観客への眼差しとは『見えない筈の物が見える、別世界が見える』-即ち、死を表徴する。

その後のベイツとの車両後部座席上やり取りで、イーストウッドには強い逆光が照射し 相貌全てが影に覆い尽くされ 彼が死を受け入れた事を告げるのだ。



【Gran Torino : The Sequel】


イーストウッドは何故“死者の来訪”と「素晴らしき哉、人生!」の逆説的ハッピーエンド/走馬燈 を「運び屋」に込めたのか。
それは本作を「グラントリノ」の続編と捉える事で全て諒解出来る。

「グラントリノ」に於いて 監督イーストウッドは 『自身の魂 -アメリカの魂- を引き継ぐ者は 他民族でも構わない』と“他者への寛容”を遺言に〈全イーストウッドの図像(イコン)〉を葬った、次代に希望を託して-。

然し彼は安らかに眠る事叶わなかった。彼が希望を託したアメリカは、退化し 後ろ向きになってゆく。
劇中彼が執拗に見せる後方への振り返りは、それだけ現アメリカが退行した事を意味する。
移民を排除し 壁を造る国。碌に趣意を汲みもせず 表層情報のみでヒステリックに振りかざされる差別反対や権利尊重。他者への配慮/ポリティカルコレクトネスと見せかけて、実際は言葉狩りや炎上恐れ自己保身の壁を造るだけに過ぎぬ軟弱な大衆。
考察も過程も抜きに 簡便に答えのみ得られる「インターネット」の蔓延が、この世界を 深層を見ず他者への配慮を逸した人々で支配したのだろうか。

その不寛容に覆われた社会で、イーストウッドは「グラントリノ」で行った“次代への教育”を試みる - “もう一度”。
ミスターデイリリー=唯一時の命を持つ者。彼が死の淵から一時だけ蘇生したのはその為だ。


然し彼に向けられる言葉は-『もう友達じゃない、関係ない』-なのだ。



【主文】


彼が力無く呟く判決主文は、誰に -そして何に- 向けられたものか。
無論 立ちはだかる不寛容の壁を前に無力だった自分自身にであり、不寛容の壁を取り払わない社会の人々に。
そして彼の映画を『イーストウッドだから、実話だから』と表層だけで簡便に判断〈決め付け/差別/壁を構築〉し、深層に眼を向けず 思慮を忘失した観客に対してでもあるだろう。

『我が人生最大の喜びであり、人生最大の苦しみ』
- アメリカ そして世界の人々への 強い愛故の、絶望的憂いがここには漲っている。



【二人いる】


ではイーストウッドは世界と観客に もう絶望しか感じていないのだろうか。
否…。

彼が助手席に向ける眼差し。その瞬間 -彼と私が見つめ合う瞬間- 私は気付かされる。
『お前はずっと助手席に乗り、俺と一緒に旅をしてきたじゃないか。誰も解らなくてもお前なら解る筈だ』と-。

カウンターバーの〈双子〉に告げる「ダブル」。ジェームズスチュアートへの〈二度〉の指摘。
そして想い出そう、彼がいつも女を〈二人分〉呼んでいた事を-。
私は乗っていた、ずっと。彼と共に〈二人で〉全てを見てきた。だから私に解らない筈がないんだ。

上辺に囚われず他者の深奥おもんぱかる事。映画も表層で判断せず深層を考察する事。それが隣人を受け入れる事と成る。『俺の映画を理解したお前なら出来る筈だ』。

満身創痍になりながらイーストウッドが尚 観客の理解力を信じ、他者への寛容と 魂の継承を〈私〉に託してくれた事を-。



【This is the last one ~映画ファンを終えてもいい】


これを唯一最期の映画にしてもいい。
そう言い切れる至上の慶び。今後もう二度とそんな気持ちになる事はないだろう。




《生涯最高峰級認定/劇場観賞×3》