ゲイリーゲイリー

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのゲイリーゲイリーのレビュー・感想・評価

4.0
スコセッシは悪を決して美化しない。
保身と金の執着という、たったそれだけのために倫理の道を踏み外す浅はかで愚かな人物を淡々と描き、悪のちっぽけさ情けなさを浮き彫りにする。
また本作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」ではそれだけにとどまらず、白人至上主義への怒りや真実から目を逸らし続ける人間の弱さを克明に描写していく。
オセージ族の殺人事件を「謎」として、ミステリーというジャンル映画として描くことを拒んだ理由にこそ、本作を通してスコセッシが語りたかったことが詰まっているのだ。

上記の通り、本作は犯人であるアーネストや叔父のヘイルの目線で物語を語る構成へと改変され、悪(ヘイル)と善(モリー)の狭間で揺れ続けるアーネストが描かれる。
そんな彼を見ていると哲学者のハンナ・アーレントがアイヒマンに対して言及した「凡庸な悪」が脳裏をよぎったのは私だけではないはず(擬似的な父と子の愛と裏切りは、スコセッシの過去作「グッドフェローズ」や「ディパーテッド」等でも度々描かれている)。
叔父であるヘイルの命令を盲目的に遂行する彼は根っからの悪人でも善人でもなく、自らの思考や倫理観を遮断する愚鈍さを持った凡人に過ぎない。
凡庸な存在である彼が思考停止に陥ることで、受動的に悪事に加担していき、愛する人や自分自身をも欺く。
何と虚しく愚かなことか。

また、「文明」や「発達」という大義名分を掲げ、他の民族から略奪を繰り返してきた白人の加害者性をスコセッシは決して風化させない(劇中で何度も登場する蝿もまた、オセージ族に群がる白人を表しているのではないか)。
本作のラストであるラジオドラマのシーンも、FBIが自分たちの功績を宣伝するためオセージ族の事件を扱ったことへの痛烈な皮肉であり、本作を単なるエンタメ作品として消費させないという彼の強い信念が垣間見える。
そうした彼の信念には同意する一方で、本作のようなネイティブアメリカンへの迫害を真正面から描くためには、ディカプリオやデ•ニーロの様な"大物俳優"を使わなければいかないという現状には違和感を抱いてしまう。

「沈黙」の吉次郎同様、自らを騙し続け真実から目を背け続けたアーネストは非常に弱い。
しかしその弱さは決して彼ら特有のものではなく、私たちの誰もが同じ弱さを持っているのではないだろうか。
近年のスコセッシは、こうした人の「弱さ」やそこから派生する「矛盾」をじっくりと描いている。
御年81歳のスコセッシが描く人間の「弱さ」と「矛盾」をこれからも劇場で観続けたい。