ゲイリーゲイリー

ウーマン・トーキング 私たちの選択のゲイリーゲイリーのレビュー・感想・評価

3.5
監督サラ・ポーリーが述べていたように、本作は決して男性性を糾弾する映画ではない。個人的には、あまりにも惨く酷すぎる行為に及んだ男性に対して、糾弾どころかもっと直接的な復讐を行ってほしいと感じたものの、本作は男性性を断罪する方向へと舵を切らず「話し合い」を描く。復讐や断罪といった近視眼的解決ではなく、もっと先を見据えた、未来に生きる子供たちにとってより良い世界を作るための「歪んだ世界をいかにして立て直し再構築するかという話し合い」を。

「赦す・闘う・去る」のどれかを選択するため設けられた議論の場だったが、男性に抑圧され搾取されてきた者同士の話し合いにもかかわらず、そうすんなりと結論は出ない。それどころかむしろ彼女たちは決して一枚岩でないことが表面化されていく。

発作を起こしたメジャルに対し、皆同じ被害者なのになぜあなただけが発作を起こすのか、皆の注意を引きたいだけなのではないかと責め立てるマリチェ。しかしそんなマリチェもまた、夫による暴力に対しなぜ声を上げなかったのかと言及され、傷口に塩を塗り込まれる。こうした被害者同士、同じ傷を持つ者たち同士が互いに責め立ててしまうという光景は、何も本作に限ったことではなく現実世界においても度々目にする。

同じ痛みを知るにもかかわらず、いや、同じ痛みを知っているからこそ「なぜ、あなただけが」「なぜ、私だけが」と自他を同一視せず差異にばかり目を向け、責め立てる。本作はこの痛ましい光景をしっかりと描きつつ、しかし同時にそうした言葉を発してしまった者に対して批判の眼差しではなく、共感と受容の眼差しを向け続ける。

そして彼女たちは話し合いを通じて、「赦し」とは何なのか、とその言葉の意義や定義についても踏み込んでいく。犯人である男たちに対してのみならず、これまで一度たりとも男たちに対して抵抗の声を上げず、たただひたすらに「赦す」ことを選び続けた女性たちにも責任があるのではないかと問いかけるのだ。アガタは「赦し」が「許可」と混同されると指摘し、彼女の娘であるオーナもまた強制された赦しは赦しではないと指摘する。

確かに、「赦す」ことを選択し続けることは「黙認」や「諦め」と捉えることも可能ではある。そして何よりそれを選択し続けることは、現状維持に加担するだけであって、次の世代たちにもまた同じ苦境を強いることとなるのだ。

しかし、被害者である女性たちに赦す•赦さないの責任を押し付けるのはやはりおかしくないか。悔いて謝罪をすべき加害者である男性だけが責任を負えよと思ってしまうのは私だけなのだろうか。主体性を奪われ続けた女性たちが、「赦す」という選択時にのみ都合よく主体性を譲渡されるのは不公平すぎやしないか。

本作はそうした「赦し」を押し付けるような不平等な力関係をも看破する。主体的に選択されたと都合よく解釈されてきた「赦し」は、男たちが作り上げてきた環境やルールによって強いられたものに過ぎない、と。強制され続けてきた「赦し」ではなく、主体性をこの手に取り返すことこそが本当に大切なのだと力強く宣言する。そうした勇気ある選択を次の世代へと繋いでいくことで、世界はより良い場所へと変化していくはずだ。