新潟の映画野郎らりほう

Fukushima 50の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

Fukushima 50(2019年製作の映画)
3.5
【想定内の空気感染】


佐藤浩市が挙手を募ると「俺が〃が」と次々に手が挙がる。
彼等の挙手は果たして志願なのか 責任感なのか、それとも場の空気や 強制に依るものかと一寸思う。
電源喪失に伴う〈暗闇〉故 志願者の相貌は皆 朧気で、それはつまり誰一人としてはっきりとした意志表示なぞしていない事を示す。
所謂〈暗黙〉ってやつだ。

当然挙手しなかった者もいた筈だが その姿をキャメラが明確に捉える事は無く、恰かも その場にいる全員が挙手したかの印象を植え付ける。


言ってしまえば「御用映画」。

「THE悪者」な時の総理大臣。啓蒙的な自衛隊/米軍の必要性、等を鑑みれば 本作製作陣がいったいどこを向いているのか窺い知れよう。

自ら志願した健気な英雄達を前に〈無批判的〉に褒め称し 崇め奉れば、『日本人であるならば!』と云った(あまり耳馴染みに為りたくない)感想を観客に生起させる事も実に容易すかろう。

準拠、隷属、同調、異を唱えぬ一律思考、場の空気、忖度。それを自己犠牲で彩れば、トモダチと絆へと美化換言される。こうやって馴らされていくわけだ。

中村ゆりに羽織る上着を脱ぐ様 富田靖子が促す。空気を読み 場に合わせろと。
原発事故に対しても、50名の作業員に対しても、そして、本作の印象に対しても…。

空気感染し易い映画。そんな事は想定内だが。




【ステーションブラックアウト=SBO】


空気を読み忖度した御用映画に対し、誰か厳然とケツを向ける奴はいないのかと憤っていると いた、ケツを向ける奴が。

若松節朗は 製作陣の忖度要請に表面上従いつつ、深部では その同調性を全力で否定してみせる。

リモートカメラに依って捉えられ 大型モニター上に映し出される渡辺謙のケツは、スクリーンを見ている私達観客にも向けられており ピクチャーインピクチャー=メタ構造と為って『観客自身の自律性をも問う』。

苦悶する渡辺謙の姿が 鏡に映し出される。他者に憑き従わず 染まらず 感染せず“自問自答”せよと。
この場面での佐藤浩市の科白『俺達は何か間違っていたのか?』も 自己批評性の表徴と為っている(Wikipediaを唯なぞるのみで悦に入る自己無き批判、自律性無き準拠順応なぞ “映画”にはこれっぽっちも届かない)。




紫煙を燻らせ渡辺謙が嘆息を吐く『何で煙草こんなにうめえんだ』― “最期の煙草”である暗示。

彼は断じて病に屈したのではない。集団から逸脱した事に依る“粛清”である。
『ステーションブラックアウト、SBOです』― 全員黒い喪服で統一(ブラックアウト)された祭場は 自己屹立の葬列か、忖度/同調の饗宴か。


桜(を見る会)に唯 悦楽し終いでは 最早絶望的である。




《DVD観賞》