【リテラシー】
恩師の危殆に杉原(松坂桃李)が火急駆け付けるが、その手段が『タクシー』だ。
何故映画内人物は、息切らし 汗滲ませ 自らの脚駆使し『走る』のか。それはそれが 単なる移動手段ではなく、人物の強い想いと決意の顕れであるからだ。
それをせずにタクシーとは随分と気楽なものである。
記者吉岡(ウンギョン)も同様。薬液を掌に揉み込みそれで決意表面とする ― その御安さ。
少しは階段上下し、幾つもの扉を開け 或いは閉め、膨大な資料の頁を捲り 愚直に駆けずり回ってみたらどうなのだ。
然しコイツらは、唯スマホ/PCを触り続けるのみ ― そんな所作行動の彼等に直向き/誠実なぞ これっぽっちも感取しない。
当然彼等が言う『真実』も誠実を伴わない。それでいいのか。
映画に於ける「嘘」が下手過ぎである。
映画とは当然嘘の塊であり 無数に嘘を重ねた末に、現実に相通ずる普遍を表出/感取するものだろうに、この映画では作り手の思う真実が先走っており 魅せる(上手く嘘をつく映画の醍醐味)が悉く欠損している。
ポリティクスリテラシーとメディアリテラシーの必要性を説く作品でありながら、シネマリテラシーについてが無頓着過ぎる。
現実的視座に囚われ過ぎるあまりマクガフィンに過ぎぬものにまで脊髄反射的に『ありえない』を連呼するシネマリテラシー無き不得要領連に映画自身が忖度してどうする。
《劇場観賞》