ラウぺ

戦場でワルツをのラウぺのレビュー・感想・評価

戦場でワルツを(2008年製作の映画)
4.2
アニメという形態をとっていますが、これはほぼ完全にドキュメンタリー。主人公がインタビューしていく戦場の記憶はどれも大変現実的で(大半が当事者の語り)、現代において普遍的な戦争の実態を浮き彫りにしていきます。
話としては1982年のレバノン侵攻の際の自身の記憶がなぜか欠落してしまった映画監督が当時の戦友とのインタビューの中で記憶を蘇らせていく、というものですが、物語の核心には1982年9月のサブラ・シャティーラの虐殺事件との関わりがどのようなものであったかが重要な要素となっています。

中学生の頃にドミニク・ラピエールとラリー・コリンズの共著「おお、エルサレム!」を読んで以来、イスラエルという国には非常に大きな関心を持ち続けてきましたが、サブラ・シャティーラの虐殺事件は私のイスラエル観を大きく変える重要な事件でもありました。
四方を敵に囲まれ、国家の生存をかけて幾度も戦争をくぐり抜けたイスラエルにはやはり一種のシンパシーとでもいうべきものがありましたし、その劣勢を跳ね返す強さにも興味がありました。
そうした当初のイメージに変化が生じたのは1981年のイラクのオシラク原子炉への爆撃事件と1982年のレバノン侵攻だったのです。
とりわけその過程で起きたサブラ・シャティーラの虐殺事件には大変大きな拒否反応がありました。

この映画をみているうちに、主人公が当時の記憶を蘇らす過程で同時に私の中のあのときの拒否反応の感触がフラッシュバックのように復活してきて不思議な感覚にとらわれました。
単なる「映画を見た」という体験とは異なる極めて個人的な記憶の追体験とでもいうべきものでしたが、この映画が各方面での絶賛を浴びる理由とは、歴史の被害者とでもいうべき立場にあったはずのイスラエルがいつの間にか加害者の側に変貌してしまっていたのが明らかになったあの事件の記憶を人々に掘り起こさせたからなのか?とふと考えたりしたのでした。

この映画で監督はイスラエルの犯した罪(虐殺を傍観した、あるいは間接的に許容した)を明確に明示しておらず、虐殺の状況説明も曖昧で反省しているとはいえない、といった趣旨の批判があったりするようですが、それはまったくのスジ違いというものです。
普通の映画ならば当時の主人公の置かれた状況が明らかになったところで、主人公達は現場でどのような行動をして、当時の記憶がよみがえった後にどのような反応をしたのか、映画的な締めくくりがあるはずなのですが、そういう終わらせ方をせずに唐突にエンドロールに突入していまいます。
断片的な記憶を繋ぐことで、徐々に当時の状況を思い出させ「あのときどう思ったか?」は見た者それぞれが自身の内なる声を聴くことで、各個に自分の結論を構築していけばよいのだと、そういう作品を意図したのだと思います。

これは当事者でない私などにもあれこれ考えるところもありますし、当然のことながらイスラエルの当事者的にもあの事件の後どうだったのか自問せずにはいられない、自問するように求められる、ということこそが重要で、具体的事象の説明など、この映画の内容からいえば、まったくの枝葉末節とでもいうべきでしょう。
その点では、関わった人も、関わりのなかった人も、等しく戦争における犯罪的行為を知ってどのように行動すべきなのか、その姿勢を問われる、まさしく真正の「反戦映画」といえるのだと思います。

振り返って現実をみれば、あれから30年以上の時が過ぎ、今日でもなんら解決の糸口も見つからない状況のなかで、こうした映画がイスラエルで作られ、なおかつ大きな反響を呼んだことは、救いようのない状況においても僅かばかりでも希望の光はあるのだと思わずにはいられません。
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