せーじ

ドラゴンクエスト ユア・ストーリーのせーじのレビュー・感想・評価

1.9
205本目はシネマイクスピアリで鑑賞。
公開されてからかなり経っているということもあり2割くらいの入り。家族連れがパラパラという、平和な客席でした。

自分は、リアルタイムでドラゴンクエストシリーズの歴史と共に子供時代を過ごしてきた身ではあるものの、ファミコンやスーファミを持っていなかったですし、プレステが出た頃にはそれ以外のRPGの選択肢も色々あったので、ドラクエシリーズだけはプレイする機会がなく、いつも横目で傍観してきてしまっていました。覚えているのは、Ⅲが出た時に持ってる子の家に友達数人でおしかけ、延々とプレイしている様子を観させて貰ったということくらいでしょうか。当然、本作の原作にあたる"天空の花嫁"も名前しか知らず、最近までどういう物語なのかも知りませんでした。

―そんな部外者ともいえる存在である自分が、果たして楽しめるのか?
酷評されているらしいけれど、何がそんなに酷いのだろうか?

そのあたりを知るために、Wikipediaで原作のあらすじと大まかな話の流れだけを頭に入れて鑑賞してきました。
その結果…




…う~ん、これは怒り出す人が現れても、仕方がないと思います。

とはいえ問題のポイントであるクライマックス(以下「例の件」と書きます)までは、まぁまぁ楽しめました。序盤こそ「動きがCGくさいな」と思うところがあったものの、それなりに感情移入できるつくりにはなっていると思います。ただ、長い物語をバランスを考えずに端折って描いてしまっているので、二人のヒロインたちや親友のヘンリー、そして仲間になるモンスターたちと主人公との絆がそんなに印象的に描かれていなくて、ちょっと勿体ないよなぁ、と思ってしまいました。例えば原作では、キラーパンサーが主人公たちの仲間だと気がつく印象的なエピソードがあるのに、です。
それと、魔法の習得と魔法の効果にロジックが欲しかったですね。単なる飛び道具になってしまっているのは非常に勿体なかったです。
更に、主人公の言葉遣いがチャラくて(これは何故そうなのか「例の件」で明らかになる訳ですが)ちょっと違和感を覚えてしまいました。
あとは、お嫁さん選びだけに時間をとり過ぎなんじゃない?とか、それぞれの街やダンジョンがどこにあってどういう距離感なのかがとてもわかりにくいとか、「例の件」直前で助けにくるヘンリー達は、一体どうやって主人公たちのピンチを知ったのかとか、フローラがお嫁さん選び以降出てこないのはちょっと…とか、天空の剣が抜かれる場面はもう少しタメが欲しかったなぁ…とか、タイムリープするくだり、すごくいいのにどうしてこんなに薄い描写なんだろう…とか、細かなことを挙げればキリが無いんですけど、それでも「例の件」のところまでは、まぁまぁ観れる感じだったと思うんです。

実はよくよく作品全体を見渡すと「例の件」までの展開でそれを匂わせる描写をちょいちょい挿入しているんですよね。
スラりんが、主人公たちと仲間になるかなり前から主人公をストーキングしていた…というのもそうでしょうし、主人公のお母さんが結解を張りながら意味深な言葉を語っていたというのもそうでしょう。お嫁さん選びの時にオババから薬を飲んで…というくだりもそうだと言えるのかもしれません。
おそらくこれらは「例の件」を知ったり、リピートをした観客に気がついて貰えるように挿入した"作劇上の伏線"なんだろうなぁ…と思いました。何故ならそれらは、物語上「例の件」が起きた後でないとそうだと気がつけない要素ばかりなので。
で、「例の件」ですけど、自分の様にドラクエシリーズにさほど深く触れてない人間でも、ダメージは凄かったです。だって何故なら、「CGくさい」と思いながらも、そこまでの物語で主人公をはじめとする登場人物にどうにか感情移入をしながら観てきた訳ですから。
誰かがTwitterで「ぬいぐるみを可愛がっている人の前でそのぬいぐるみを剥いでみせて『こんなの只の綿の塊じゃん、なに可愛がってんのコドモ臭い』と言う様なものだ」と言っていましたが、言い得て妙だと思います。しかもこの例えが残酷なのは「たとえ元に戻したり別のぬいぐるみを買ったとしても、剥いでそう言われてしまったという事実は揺るがない」所にあると思うんですよね。「覆水盆に返らず」とはよく言ったもので、ああいう形で見せつけられてしまうと、それまで信じて観ていたものが全部信じられなくなってしまうと思うのです。
いちおう主人公は「世界」を元に戻すのですけど、元に戻った後に主人公のもとに駆け寄ってきた登場人物たちは、自分にはもう「例の件」以前の彼らと同じ存在には見えませんでした…

おそらくは、「ドラゴンクエストⅤという"コンテンツ"は、誰にどんな形で貶められたとしても、あなたがたひとりひとりの物語であることには変わりはない」ということを強調するために、そしてお嫁さん選びの時に必ず生じてしまう矛盾をクリアさせるために、ああいう展開を作り手は考えたのでしょうが、目線が上から過ぎるうえに、とても残酷だと思います。
そしてそれは「フィクションを楽しむ」「イマジネーションを拡げる」という映画をはじめとするすべての創作物が果たしてきた役割をも無下にも踏みにじり兼ねない、危険な考え方なのではないでしょうか。

役者さん達は凄く頑張っていたんですけどね。残念です。。。
せーじ

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