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ファブリックのkuuのレビュー・感想・評価

ファブリック(2018年製作の映画)
3.0
『ファブリック』
原題 In Fabric
製作年 2019年。上映時間 118分。
映倫区分 PG12
呪われた赤いドレスを巡る恐怖を独創的な世界観で描いたイギリス製ホラー。
マリアンヌ・ジャン=バプティストが主演を務め、シセ・バベット・クヌッセン、ヘイリー・スクワイアーズ、グウェンドリン・クリスティーが共演。
監督・脚本はピーター・ストリックランド。

離婚したばかりで公私ともに冴えない日々を送るシーラは、セール中のデパートで真っ赤なドレスを買う。
その魅力的なドレスは不思議と彼女の身体になじみ、シーラには自分の人生を変えてくれる幸運の贈り物のように思えた。
新しい出会いを求め、ドレスを着てデートに出かけるシーラだったが、不可解な出来事が次々と起こり。。。

今作品の物語は、
孤独な銀行員シーラ(マリアンヌ・ジャン=バティスト)の物語。
高級デパートの謎めいた店員ジル(シッセ・バベット・クヌッセン)の物語。
そして、洗濯修理工レグ(レオ・ビル)とその婚約者バブス(ヘイリー・スクワイアーズ)の物語とが交錯する。
彼らは皆、ゴーストのような赤い(カタログでは、ドレスの色は "terry red "と記載されてたと思う)ドレスでつながっており、そのドレスは接触した人々の人生に致命的な影響を与えるよう。
ドレスは憑依されてんのか?
資本主義と消費主義の悪魔的な力が、ドレスに恐ろしい生命を与えたんか?
ドレスじゃなくジーンズが人を殺して生き血を啜るなら違う映画になっちまう。
今作品のテーマは、カール・マルクスとジークムント・フロイトの興味深いミックスであり、喜劇的でおぞましい不気味なイメージを通して、商業/物質的なモノがフェティシズム化していく様を描いている。
意識的に見なきゃ『ナンじゃこりゃ』レベルの映画やけど。。。
ピーター・ストリックランド監督は、ドレスがゴーストみたいに動き、洗濯機の修理工のおしゃべりが一種のエロティックな催眠術として機能する、資本主義に取り憑かれたゴシック調の世界に視聴者をいざなう。
この世界では、孤独な心は、カタログで服を売るモデルのように、雑誌広告で自分自身を売ることによって、他の孤独な心を求める。
脚本の序盤で、今作品にコメディを素早く注入しているのは、ストリックランド監督が資本主義の退屈さを巧みに利用している点と云える。
例えば、シーラに初めて会って間もなく、彼女の上司たち。
スタッシュ役のジュリアン・バラット、クライブ役のスティーヴ・オラムの活気に満ちた滑稽さ、そして、愉快なほど無表情等々が登場する。
例えば、シーラの握手が会社の理念を伝えるのに十分な意味がないのではないかと心配したり、シーラがトイレ休憩を取りすぎていて、結局は取るに足らないことだと彼らは考えている。
スタッシュとクライブは、稚拙で乾いたウィットと安っぽい笑顔で従業員を細かく管理する。
今作品は、資本主義の退屈さからそのフェティシズム(フランス語の"フェティッシュ"物神、呪物から生じた言葉であり、ある対象、あるいはその断片を偏愛する態度のこと)へと移行していく。これは、ジルと店長のランディ(リチャード・ブレマー)が使う脚本の言葉遣いからも明らかかな。
ドレスを売ることは "恍惚の取引 "であり、"格調高い消費主義の祝祭 "であると。
ランディは特に、デントリー&ソーパーで買い物をするには、その客に期待される『必要な買い物の血統』があると述べている。
店主にとっても店長にとっても、店の教義は宗教的教義として扱われる。
不穏な資本主義フェティッシュは、その名も『スレイバートンズ・ウォッシュ』で働くレジに見られる。
レジは洗濯機の修理について暗記したお喋りを繰り返し、女性に催眠術をかけるが、それはエロティシズムに近い。 
後日、銀行支店長のスタッシュとクライヴが、レジが暗記した台詞をまくしたてるのを聞きたいとリクエストし、彼らが熱心に聞いている間に擬似オーガズム状態に陥るのが最高に不気味。
この奇妙な繰り返しの瞬間は、ストリックランドが商品フェティシズムに巧みに釘を刺すところであり、この間、エロティックは明らかに資本主義的な形をとる。
繰り返される瞬間という点では、今作品はフロイトの不気味さをうまく利用している。
デントリーとソーパーの反復的で催眠術のようなコマーシャルは、何度も見られる目立つイメージであり、コマーシャル自体にも、ランディと彼の店員たちが、トリッピーな音楽がバックでループする中、無言で客に呼びかける『いらっしゃいませ』の繰り返しがあり、彼らは朝の開店前に実際の客の前でこのジェスチャーを繰り返す。
ジルはマネキンを鏡に映し、自分のハゲ頭をカツラの下に隠し、マネキンの二重人格のように見せる。
マネキンが生きているのか、ジル自身が擬人化されたマネキンなのかわからないほど、超現実的な線がぼやけている。
不気味さの中で善かった瞬間は、シーラが夢を語る場面。
彼女はドレスを着た死んだ腐った母親として現れ、そのドレスは彼女自身が着た赤いドレスとして現れる。 
シーラの無意識にある悪夢のようなイメージはすべて、フロイト的な不気味さの完璧な瞬間であり、二重人格が彼女の夢を悩ませている。 
ストリックランド監督の映画にゴシックが登場する方法はいくつかある。
重要なゴシックの象徴のひとつは、デパート、デントリー・アンド・ソーパー。
この店は、その地下に秘密を隠した古い不気味な邸宅のようなものとなっている。  
古めかしくて不思議な金融システム、その他不気味なもの、そして2階では、不穏な店主ジルが、18世紀の小説に出てくる謎めいた世捨て人のように、建物の頂上にある大きな窓から入店を待つ客を見守っている。
先にも書いたの赤いドレスは、ゴシックのシンボルとして非常に重要で、それは幽霊のような役割を果たし、文字通り浮遊して人々につきまとい、恐ろしいと同時に愉快な妖怪でもある。
ドレスが超自然的な性質を帯びるのは、シーラがドレスを洗濯しようとして洗濯機を破壊してしまった後、その破壊力において顕著かな。 
それは、消費主義が人々を毒し、肉体的に枯れさせていく様を、発疹という肉体的なメタファーによって人々に痕跡を残す。
物質的なオブジェであるドレスも同様に、それを身につけた人々を亡霊のような状態に落とし、シーラの場合は死へと導く手助けをする。 
最も重要なんは、最後のシークエンスで、幽霊が『ジェーン・エア』のバーサ・メイソンのような性質を帯び、デパートに火を放ち、大虐殺を引き起こしそうになる。
今作品全体を貫く主要なテーマは、資本主義が我々個人を破壊する有害な方法であり、特に身体と個人のアイデンティティに関連している。
特に赤いドレスというファッションの世界は、ストリックランド監督が資本主義の最も邪悪な影響を身体/自己への影響として位置づける手法である。
冒頭、このドレスが人々に残す発疹は、資本主義の破壊を極めて文字通りのイメージとして提示している。
資本主義が我々を身体資本に還元する方法を、最初はシーラを通して、そして後にはジルを通して、最もよく探っている。
この資本主義的な身体/自己の縮小を物語る2つのショットがある。 
もうひとつは、バブスがジルに夢を語る場面で、同じようなショットが繰り返されるが、それはカタログから半分に切り取られたバブスの姿である。
ここでストリックランド監督は、身体と自己の売買に焦点を当てている。
シーラは、カタログのモデルと同じように、恋愛のためとは云え、自分自身を売っている。
恋愛は資本主義的取引のひとつであり、ドレスのような商品を買うのと変わらない。
これは新聞のデート・サービスにも反映されている。
デートの相手はそれぞれ数字に還元され、受取箱に書かれた数字でお互いを呼び合う。
資本主義の言語がいかに現代生活のあらゆる分野に浸透しているかを描いている。
しかし、身体/アイデンティティを資本主義の道具に崩壊させる最も不気味なイメージは、ジルとマネキンの間の肌を這うような曖昧さである。
作中、マネキンがよくでてくる。
あるマネキンは肉付きがよく、出血している膣の周りに毛が生えている。
このシーンでは、ジルともう一人の店員がマネキンの全身を触り、ランディは近くで、恍惚と恐怖が入り混じった爺行為じゃない🙇自慰行為をしている。
今作品はホラーとコメディのハイブリッドで、その根底にある風刺を極めて真面目に描いている。ストリックランド監督はゴージャスな映像で仕事をする。
彼のホラー映画はどれも明らかにジャッロにインスパイアされているが、この作品はその影響を最も誇らしげに纏っていることは間違いない。
因みにジャッロ(伊: Giallo、発音 ['ʤallo])は、イタリアの20世紀の文学ジャンル、映画のジャンルである。フランスの幻想文学、犯罪小説、ホラー小説、エロティック文学に密接にかかわりがある。
作中のドレスはほとんどの時間ゴーストを演じふわふわ動く。
ファッショナブルでぞっとするようなシークエンスで、エーテルに出入りして犠牲者を狙う巧妙なジャイロの殺人鬼のようにも感じられる。
そして、常に、資本主義の亡霊が観客を悩まし、我々自身を亡霊へと枯らしていく。
今作品がゴシック的な寓話として機能しているのは、ストリックランド監督が資本主義/消費主義文化への批判に必要な要素をすべて並べながら、決してメッセージで我々の頭を殴りつけるようなことはしていない点にも表れている。
多かれ少なかれ、すべての含意はそこにある。
映像も脚本も、それを鼻にかけない。
時折、この映画のイメージのひとつが、幽霊のような使命を帯びたドレスのように、無意識から浮遊し、寓意が少し現実味を帯び、少し明確になる意識空間に着地する。
今、新しい服を手に取るたびに、それを買うために誰が自分のどの部分を捨てて作ったのか、そしてそれを買うために私はどれだけの自分を失うのだろうか、と考えてしまう。
MONCLERのTシャツを買うか買うまいか。。。
kuu

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