新潟の映画野郎らりほう

燃ゆる女の肖像の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

燃ゆる女の肖像(2019年製作の映画)
5.0
【焔に誘われ 身を焦がし 恋に燃え逝く蛾の様に】


焔越しに二人の女が見つめ合う。後景雑多は漆黒にのみ込まれ 彼女達の相貌を橙色に染めてゆく。相貌に映り込む焔はゆらぎ、恋の惑いと昂揚を表徴する。

刹那 身躯上に燃え上がる焔。

二人はその焔に気付きながらも 消そうとはせず、尚も互いを見つめ続ける。

何故って…、それが〈恋の焔〉だから。


その恋(焔)が、美しき恍惚であると共に、危険(熱傷)で 立ち直れぬ後遺症(傷痕)を齎しかねぬと識りながら 二人は見つめ合う ― 恋に命を賭す彼女達の覚悟が感じられる。

見兼ねて周囲の者達が消火に走るのだが、そんな燃え上がる二人の恋の焔も、彼等の眼には〈焚火が衣服裾端に延焼し危険〉としか映らない。

その消火行為は 至極〈常識的な判断〉であるが、ここで その「常識的ものの見方」が「同性愛を認めず 全力で消し去ろうとする社会常識」と equal である事に気付き戦慄する。

問題は、彼等が 意識的に差別/排斥を行っているのではなく、善意で ―良かれと思い― とる行動が 差別/排斥と為っている点(=常識への疑義/危険性)である。


恋の美しさ、歓び、痛みと、其に負けぬ覚悟。社会の無理解と差別。常識/固定観念に囚われ 識らず多様性を抹殺している善意面した無自覚性。そして、恋の焔を社会に依って消される二人の行く末の暗示 ――― 科白無き僅か数秒の場面にその全てが込められており言葉を失う。


想像してほしい ―この“数秒”だけでも完璧だが、本作は 上映時間122分の全てが このレベルにある事を―。


心の内が全て露呈する恐れを抱かせて止まぬ絵筆擦過音。
窃視の惑溺性。疾走 / 振り返り / 起立 / 着座 ― 動態と人物配置/構図の精良。崖 / 階段 ― 概況の顕現。
神話を引用/透過化し 自らを神話化する崇高。

そして嗚呼…、さざ波立つ心模様そのままの“波濤”を背に向かい合う二人の姿に…、どうして涙を堪える事など出来よう。




『こんなものは本当の私ではない、本当の私を見て』 ― “眼差し”への根源的問いは 本作観賞者自身を、常識に囚われず場面の趣意を一目で諒解する観客と、狭量な固定観念と狭小視野故に 額面通りにしか受け取らず その他の可能性が考えられぬ観客とに残酷に二分 ― 映画と観客の関係性をも提起する。

そこにはー、
本当の映画の姿を見つめてくれる観客の存在を信じ、厳然と唯 見つめられる事を 寡黙に撰んだ映画監督の屹立した姿がある。



こんな恋は もう二度と出来ぬ様に、私も もう二度と ここまで映画に恋する事はないだろう。




《生涯最高峰級認定/劇場観賞》