新潟の映画野郎らりほう

鵞鳥湖の夜の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

鵞鳥湖の夜(2019年製作の映画)
4.7
【Rapture - 狂喜】


フーゴーとグイルンメイ、其々から伸び 壁面に浮かび上がった二体の影法師は、その境目を溶解させ まるで融合した一つの生命体である。
幾枚の鏡に映し出された無数のフーゴーの鏡像を見遣るグイルンメイは、恰も自らの形貌を凝視しているかの様であり。
テントの内と外。帆布越しに歩み行く二人の同期/Synchronization。
その時 フーゴーは、グイルンメイの影と化しているのだ。

同一人物、托生、男から女への転生、そして再誕 ― その仄めかし。
同じ碗を喰らい、強姦に我が事の様に怒りを行使する。
葉巻を噛み咥え 口許からその端くれを唾棄するフーゴーの姿は、後半 陰茎咥え 精液を湖面に唾棄するグイルンメイへと対照/反復される。


最終局。それらに 朧に気付き始めた警部のリャオファンは、狐に抓まれた如く茫然と立ち尽くす ―観客各々の茫然を画面に刻印する様に―。



〈追記〉
撮影/照明/美術/ロケーション、完璧と言ってよい。映されるショットは全てが美麗 且つ洗練、更に寓意的である。
依って、全てのショットに見惚れ 考察してしまうが故に、映画の進行に思考追い付かず 取り残されがちと為るのが玉に瑕か。


「全てのショットが美麗 且つ洗練」と述べたが、被写体その物は 実は不浄粗雑なものばかりである。未整地の広場、朽果てた造営物、完成する事放棄したかの高架橋、集合住宅から廃棄される無数の残滓。
美麗と不浄の不離一体 ~ それは、都市開発〈洗練〉の為に唾棄され続けた〈中国の残滓〉だろうか。
理想都市の看板(!)の前を行くグイルンメイ。其処には、中国勃興から切り離され 忘れ 唾棄された 消え逝く地方の粗雑(を含む良さ)への憧憬が浮かび上がっていた。



〈追々記〉
「ナルニア国物語」の箪笥以上に その内部が異界へと繋がっていそうな、中古家具市場奥に鎮座する巨大な箪笥。溝口健二を想起する湖上の霧。そして前述した理想都市の看板。
地図に無い街=この世に存在しない世界。
男性優位/暴力/犯罪。嫌悪し唾棄すべきそれら因子から 尚醸成される麻薬の如き蠱惑。湖の水底で、箪笥の中で、そして鏡の中の世界(だけ)で未だ蠢き続けるもう排斥すべきそれら郷愁の 最期の恍惚は、どこか Rapture(キリスト教終末論に於ける再臨の狂喜)すら思わせる。




《劇場観賞》