新潟の映画野郎らりほう

1917 命をかけた伝令の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

1917 命をかけた伝令(2019年製作の映画)
4.8
【輪廻の果て待つ菩提の樹】


水面揺蕩う無数の花弁。廃墟と化した市街地噴水広場立ち上る灼熱の業火。仮初めの母に想起する愛おしき母の幻/陽炎(かげろう)。殺し合う二人の影法師に浮かぶ 自身と敵の命の等価性。
全編 抽象に与しない写実的筆致でありながら、観念性/精神性 そして宗教的暗示の表出が見事である。
そしてー、

上等兵二人の“目覚め/開眼”に依って幕開くファーストショットを見て、ラストショットにおそらく“閉眼”が待つだろう事を、そして 本作が何故ワンカットなのか ―本作の趣意を― 看取する。


命を賭す“伝令”。彼等は走り続ける―“伝え 届ける”為に ―『前線部隊に』ではなく『現代の私達に』―。


以下、鏤められた“仏教的因子”を読み解き 本作が本当に伝えたかった“メッセージ”を深思したい。



【サンサーラ/永劫輪廻】

前述した様に 作品は“開眼”から“閉眼”迄が途切れず一筆書きされ、ラストショットが再びファーストショットに繋がる“円環構造”と為っている。
つまり彼等は“再び起こされ 走り 伝える”事を要求される ―永遠に―。

無限の死と転生=サンサーラ/永劫輪廻であるが、では何故 彼等は 輪廻の環を強いられるのか。
それは“彼等のメッセージ/戦場の酷薄”を 聞こうとしなかった、決して受け取ろうとしなかったからだろう、私達が―。

もう100年以上になる。何も学ばず 何一つ進歩せず ただ戦争を繰り返し続ける『その後の私達』は、本当に彼等のメッセージを聞いた/受け取ったとは とても言えまい。
だから彼等の輪廻は終わらない。

無論それは、学習も進歩もせず同様の戦争を100年繰り返し続ける現代の私達こそが 終わらない輪廻の只中にいる事の告発であり、この映画は『100年前の他人事ではなく 私達自身の鏡像に他ならぬ』事こそを“伝令”しているのである。



【ニルヴァーナ/涅槃、そして菩提樹】

終わり無き輪廻を絶ち切る(解脱)先に待つ安息=ニルヴァーナ/涅槃と、其処に立つと云う菩提の樹―。


苛烈な戦場に不釣り合いな 静謐な古民家(その清閑に、タルコフスキー「ノスタルジア」の“永遠閉域”を想起したのは私だけではあるまい)。
その庭先に切り倒された無数の木々が、彼等の行く先に 輪廻の終わりなぞ無い事を ―菩提樹無き事を― 残酷に暗示する。その 彼等へのあまりの無情と、それが私達の不学故である事に 痛切に戒飭を思う。



最終極。
彼等は、葉も華も無い 今にも折れそうな“一本の樹”に辿り着く。
そして あらん限りの力を振り絞り目を閉じる ― もう二度と目が覚めない様に、二度と走らなくてすむ様にと。

彼等の輪廻を絶ち切り その弱木を菩提樹に変え、彼等に涅槃を与える事が出来るのは『私達が真にメッセージを看取する事』『彼等に我を見る事』だろう。

…「もうこれ以上苦しめず 安らかに眠らせてあげよう」





『わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない』― パーリ仏典 第26経




《劇場観賞》