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地獄の黙示録 ファイナル・カットのkuuのレビュー・感想・評価

4.0
『地獄の黙示録 ファイナルカット』
原題 Apocalypse Now: Final Cut
製作年 2019年。上映時間 182分。
映倫区分 PG12
フランシス・フォード・コッポラ監督が1979年に発表し、カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞したほか、膨大な製作費や過酷な撮影環境、CGなしの壮大なスケールの映像など、数々の伝説を残した戦争映画の傑作『地獄の黙示録』を、コッポラ監督自身が望むかたちに再編集した最終版。
79年のオリジナル版より30分長く、2001年に発表された特別完全版より20分短いバージョンとなり、新たにデジタル修復も施された。
出演はマーロン・ブランド、マーティン・シーン、ロバート・デュバル、ローレンス・フィッシュバーン、ハリソン・フォード、デニス・ホッパーほか。
TELASAにて鑑賞。

ベトナム戦争が激化する1960年代末。アメリカ陸軍のウィラード大尉は、軍上層部から特殊な任務を与えられる。
それは、カンボジア奥地のジャングルで軍規を無視して自らの王国を築いているという、カーツ大佐を暗殺するというものだった。
ウィラードは部下を連れてヌン川をさかのぼり、カンボジアの奥地へと踏み込んでいくが、その過程で戦争がもたらす狂気と異様な光景を目の当たりにする。

    死んだ男の残したものは
              谷川俊太郎
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着物一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは
ねじれた足と干いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだ彼らの残したものは
生きてる私生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない

フランシス・フォード・コッポラの巨大で包括的なベトナムこの戦争映画は、時代を超越した傑作映画の特徴をほとんどすべて備えている。
その範囲と野心において、今作品は他の追随を許さない。
『地獄の黙示録』は、テーマ的にも質的にも、すべての戦争映画を終わらせる戦争映画を目指している。
40年以上経った今でも、彼の映画が製作年とは無関係に見え、感じられるのは、確かにコッポラの能力と芸術性の証です。
今作品は壮大に撮影され、1970年代の映画の中で間違いなく最高のプロダクション・バリューを持っているだけでなく、登場人物たちにも時代を超越している。
確かに、彼らはその政治的、歴史的な時代に属しているが、その実現には1970年代の映画のキャラの典型的な特徴の影響を受けていないように見える。
映画の前半では、戦争の混乱と無意味さが描かれる。
無感動で無敵のキルゴア中佐(ロバート・デュバルが象徴的に演じている)は、民間人の村が猛攻撃を受ける中、サーフィンのことしか考えていないイカれ具合。
ある種の気まぐれを感じさせるこの場面は、ウィラードをさらに上流で待ち受けるものへの反極であり、混沌と無意味が絶望と狂気に置き換わる場面である。
これが戦争のプロセスであり、戦争がいかにして引き金を引くのが好きで平然としている愛国者ビル・キルゴア中佐(ロバート・デュヴァル)から、内省的な質問者ベンジャミン・L・ウィラード大尉(マーティン・シーン)を経て、本格的な狂気のデマゴーグ、ウォルター・E・カーツ大佐(マーロン・ブランド)へと変貌させるかを、コッポラは示唆している。
今作品は、個人的にどのバージョンを観たとしても共鳴する映画だと思う。 
本質は反戦(コッポラ自身は『これは反戦映画ではない』と断言しているが)とどうしてもおもってしまう。
ロマンティシズムがないわけではない。
戦争というスペクタクルが織りなす風景は、時に憧憬の念を込めて撮影され、まるでワンダーランドのよう。
しかし、それは逃げ場のない危険なワンダーランドであり、少なくともまともな逃げ場はない。
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