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街の上でのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

街の上で(2019年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

 これは壮大なネタである。130分を掛けた壮大なネタなのだ。と、言い聞かせないと納得がいかない。作られた会話で成り立つ壮大な前フリ。調べれば元は芸人を目指していたそうだ、今作の監督は。そうなるとなんとなく合点がいく。

 会話の違和感。自然さを装って返って気味の悪い印象を抱かせる言葉遣い。「マジマジ」「恥ずっ」みたいな台詞は、我々の不意をついて口に出るのとしっかり文字起こしされたものを覚えてアウトプットするのではワケが違う。では、英語の「fuckin」の自然さを何故邦画ができないのかと言われるとわからない。

 そんなこんなで前半はまるで退屈。会話はそのような不自然さと、また随所に挟まれるお笑いの台本を読むかのような内容の会話に違和感。明らかに俯瞰的な撮り方、つまり定点でほぼカットを切らないという演出にも関わらず、被写体はもっぱらコント仕立てな演じる人感満載なのである。そうなると定点長回しは自然さよりも演じている彼らの生感を出し、演劇的な側面を強めているように思える。

 定点長回しという形式。これもまた学生映画あるあるな雰囲気で見てられない。百歩譲って学生映画よりは魅力的な演技が必要なはずだ。会話劇の定点固定は、画面に動きをもたらさず間延びするばかりではないのか。おそらくこの形式を取ったのは消去法であるように思う。無難な切り返しはよりこれらをより陳腐なドラマに仕立てかねず、また下北沢というどこかハンドメイドな雰囲気を汲み取るために、定点が妥当だったのだろう。ただ、それはある1つの解決策ではあるが、魅力への奉仕をしたとは思えない。無難なドラマを回避したとて、そのスタンダードサイズの画面は学生映画に一番頻出する無難さになってしまっている。食事する向かい合う二人を横からシンメトリーで撮ることの意義はあるのか。あの構図は逃げの構図にさえなりかねない、学生映画で二人を等価にしか扱えず、どちらの顔も窺いつつ且つ状況も見せたい時の構図でもあるからだ。よほど何か意味を付与しなければこの意味にカットの質は落ちさえする。

 そんなこんなで酷く愚痴をこぼすも、群像劇としてそれが集結して修羅場となり、引くに引けない描写になるのがめちゃくちゃ面白い。このシーンを見て、あの不自然警官が伏線であったことなんかに気がつくわけで。だから、前半はもうとにかく大まえフリだったのだ。しかし、日本映画の昨今のこの予定調和ぶりには呆れるというか、せっかくの葛藤は解決に向かうこともなくふんわり解消されてしまう。一番の盛り上がりを、何故?もったいなさすぎる。雪が自転車を盗み警官に止められ、その後警官も振り切るが、もうこの警官は追うとか何もしないので、ほぼ警官である必要性もなく。また次カットは既に次のシーンで、あの修羅場がどう解決されたかもわからないままに話は進む。泥沼化してもいいし、投げやりでもいいから日本映画は自分で提示した葛藤を解決する姿勢を見せて欲しい(「空白」よ、お前のことだぞ)。今作が結局ただ元の鞘に収まる話で、あのボケッとした男への監督の眼(愛)差しが非常に感じられてしまう(詳細は後述)。葛藤を解決できないという部分で、監督と主人公は共通点を持つ。だからこそ監督は自身の分身を愛す。「あれは俺だ」と言わんばかりに。

 劇中の自主映画でカットされた主人公の存在。普通の映画がそのぎこちない男を映し出さない所に、本屋の娘は「存在の否定」を感じ取る。映画はフレーミングするという残酷さを兼ね備えている。そこで、この映画はそんな”忘れられた人々”を映す努力をする。カットされるべき男をあますことなくこの映画は映すわけで、「存在の否定」に対してのメタ的な応答がここにある。

 この映画は下北沢版ブニュエルの「忘れられた人々」である。サブカルチャーの中、様々な挫折やらで無気力なままそこに浸る人々の、忘られた存在。特に今泉監督の下積みを鑑みれば、彼らへの同情は必須だろう。ただ、この映画の定点の形式から一見俯瞰して物事が演出されているかのように見えるが、実際は主人公と監督の視点はかなり近く、客観的ではなくあくまで当事者として物語られている。不意に語られる後半での主人公のモノローグという内的な吐露や、その内容の妙なリアルさ(風俗云々)がそれを裏付けている。

 元の鞘に収まるというこれまた非常にブニュエル的な結論。冒頭のシーンと同じケーキを後半に引き出すことで、「皆殺しの天使たち」の家具の配置の秩序による解放を想起させるのは気のせいか。同じことを繰り返して元に戻った彼らは逆に、いつだってまた冒頭に逆戻りする可能性があると暗示されているかのようではないか。その繰り返しの中に成功への抜け道があるだろうか。いや、ない。しかし、そのループを楽しむ彼らの長い長い130分が完全なる無ではなかったことはわかった。このループから抜けれないパラレルの自分を、それでも悪くないのだと肯定し言い聞かせるように。

 モラトリアムであり続けようとする行為。この映画がブニュエル的と言ったが、それは形式としてであり、思想は違う。ブニュエルのループは不条理と人の営みへの俯瞰である。今作はむしろループを受け入れる側その人の視点である。例えばこの会話を例にあげよう。男はある女の家に上がる。そこで和気藹々と話す。ふと「こんなに話せるのに、どうして男女の関係になると変わってしまうのか」という命題が浮かび上がり、両者が意見を交わす。この際のぎこちなさこそ卓越した演出だと思う。しかし、結果的に相手と”こんなに話せる”状態を主人公は維持する。それはエモさでもなんでもなく、”性的な関係へと進むことへの恐怖”と精神分析よろしく書き起こしてみたい。上のような台詞は、邦画史上よく出る疑問形の言葉だ。それ故に邦画は名言集のような説教じみた会話が多くなる。それは断言めいているからこそあたかも真理のように受け取られやすい。そうなると物事はそこで宙吊りになり、止まってしまいピリオドの役目になる。これが主人公が潜在的にモラトリアムにい続けようとしているという事を隠蔽してしまう(ということにも監督は無自覚なように思える)。エモい言葉で止まり、それ以上の深堀ができない。エモさ、それは今思えば事象の前に立ち現れる霧のようなものであり、その霧の機微を上手く見せることができても、その霧の奥に何もないということは創作者としてやってはいけない。それはどのような問題提起も思想もないのだから。霧のきめ細やかさだけを表現だと思い込む節が邦画は特に強く、エモさ自体を否定なんかしないが作り手のそこへの甘んじた態度を許さない(自戒を込めて)。

 下北沢、好きだけどサブカルチャーひっさげてこんな面々を映し出すところにだらしなさを感じる。あと安易(ライト)な嫌悪される人の描写が嫌いです(昨今の邦画全般コレです)。シネフィルぶって映画タイトル間違えちゃう人とか、自主映画制作してる学生とか、一面的なイラッとした感情のためだけにいる人物にむしろ同情する。こういう寛容的で無い人物造形をそのまま現実にも適用する人は非常に多い。というか現実が良くない?
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