kuu

はるヲうるひとのkuuのレビュー・感想・評価

はるヲうるひと(2020年製作の映画)
2.3
『はるヲうるひと』映倫区分R15+.
製作年2020年。上映時間113分。

俳優・佐藤二朗が主宰する演劇ユニット「ちからわざ」で2009年に初演となった同名舞台を佐藤の監督・脚本・出演、山田孝之主演で映画化。
山田、佐藤のほか、仲里依紗、向井理、坂井真紀らが顔をそろえる。

その島には至るところに置屋が点在し、本土から日に2度来る連絡船が島への客の往来の足となっている。
島に暮らす人びとはこの閉塞された島で一生を過ごし、女たちは客からの話を聞いて『外』への思いをはせ、男は女たちの多くが抱く夢を一笑に付して島に留まらせる。
ある置屋の3兄妹。店を仕切る長男の哲雄は凶悪な性格で恐れられ、こびへつらう次男の得太を子分のように従えている。
長女のいぶきは、長年患っている持病で床に伏している。
この置屋で働く4人の個性的な遊女たちは、女を売る家で唯一女を売らず、誰よりも美しいいぶきに嫉妬していた。

正直、佐藤蛾次郎じゃない二朗はオモロイ俳優やけど今作品はオモロなかった。
キモい部分のみクローズアップされてた
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル。
多少売れたさかいにイケルって馬鹿げた幻想に映画製作に逝く俳優さんは多々いる。
佐藤二朗さんよ、逝ききるなら学んだ上で映画撮らんかいかい。
確かに俳優さんや芸人の中には多彩な人もいるが、餅は餅屋には勝ちにくい。
当たるも八卦当たらぬも八卦で映画作んなよ。
もうちと、性産業がいかなるものか、学んだうえで作れよ佐藤二朗。
と書く小生も机上のみの知識でしかないが、多少なりとも考える。
そうしなきゃ、こないな問題に対し真摯に向き合う人たちに愚弄してるようで、虫酸がはしる。
まぁ、佐藤二朗が銭を出して作っとんのなら、また、オモロないなら観るなと云われるかも知れへんけど。。。
でも救いは、俳優陣はなかなかどうして演技は巧みやったし、見続けてもた。
俳優陣は巧みゆえに、ストーリーが糞で歯がゆい映画でした。
俳優の無駄遣い。
向井理をこないに無駄に扱うとは。


あとは徒然になが~くなりそうな文を連ねますし、もし、お時間がお許しになられましたらお読み頂ければ幸いっす。
※読み返したらクソ長くなりましたし、長ったらしいのは勘弁してくれって方はスルーしてくださいね😊。

なぜ肉体(性)を売ってはいけないんやろか?
人として職業選択の自由ってのはどの辺まで認められれとんのか?
この疑問を突き詰めりゃ、個人の自由な選択はどこまで肯定されうるか。
個人の自由は場合によっては制限されちまうのが世の常かな。
性産業は、『無資格の医者』のような制限されるべき職業やろうか。
何であかんのかってのは、職業選択の自由はどこまで認められるのかって云い換えれる。
社会的な課題として、
性病を媒介する、
反社会的勢力の収入源になる
等は、ちと置いといて、あくまでも個人の選択として、性を売るんがアリかナシか。
突き詰めたら、
個人の自由な選択はどこまで認められうるんかになる。
少なくとも無資格なら医者ちゅう職業を選択する自由はあらへん。
個人の自由は場合によっては制限される。
なら、性産業は、無資格の医者モドキのような制限されるべき職業なんかな。
それともリーマンと変わらへん、個人の自由な選択に委ねられるべきモンなんやろか。
自由な選択ってあっても、実際には制限されるケースがある。
それは大まかに三つ(まだあるやろけど)に大別でけるんかな。
まず、
自由を制限したほうが本人のためになるときがある。
個人の自由な選択やと云っても、本人のためになるとは限らへん。
より本人の利得になるような、頭のエエ選択を、ど偉い人が提供すべきだという考え方があるのは確かやけど。
ここで云う、ど偉い人てのは、たいていは政府のことを云う。
実際はど偉いふりした守銭奴の糞ばかり。
話は戻して、パターナリズム(温情主義)なんて呼ばれる考え方がある。
例えば、代表的なモンやと、シートベルトの着用義務があげられるかな。
また未成年の飲酒喫煙禁止もパターナリズムに該当する。
パターナリズムは、「自由」とは相容れないモンかもしれへん。
自由を追求すんのなら、ど偉い人が何って云っても、本人の選択を重んじるべきだからや。
何歳からタバコを吸おうが、本人やその家族が認めとんのなら、自由であるはず。
せや、本人の健康被害や将来の中毒者を減らすといった社会全体の利益を守るため、日本では未成年の禁煙が禁じられてる。
日本人の多くはパターナリズムを肯定している。 
日本においては、個人の自由よりも社会のモラルのほうが大切やと考える人が多いんかもしれへん。

二つ目は、
他人の権利を侵害するとき。
人には人を殺す自由が許されてへんし、他人のモノを盗んだりブチ壊したりする自由もあらへん。
他人の権利や自由を侵害するような自由は到底認められへん。
例えば、リーマンショックの直後には金融市場の自由は制限を受けるべきかなんて議論の的になった。
もし、金融市場が、人々の安心して暮らす権利を脅かすのならば、自由やって云ってもほっとけない。
なら、リーマンショックのような強烈な景気後退は、自由な金融市場がある限り不可避なのなんやろか。
政府の介入がなきゃ避けらんのやろか。
金融市場の自由を巡って、喧々諤々の議論が繰り広げられたのは昔じゃない。

三つ目に、
実際には本人の選択ではないとき。
本人は、至極、個人の自由な選択なんや思ってんのが、実際には本人の選択じゃない場合がある。
たとえば振り込め詐欺に引っかかっちまう高齢者の例で云うと、騙されたと気づくまでは、本人は自由な選択の結果としてカネを振り込んでいるはず。
騙されたり、社会的な圧力によって選択を余儀なくされたり、本人は自由な選択だと思っているが実際には違う場合、その人の自由は制限されうる。
実際、社会の仕事はこんなんばかりやけど、やってて、そこになにやら目的を見出だしたりはする。
振り込め詐欺にもどして、
詐欺防止のために高齢者のキャッシュカードを家族が預かる。
これって、高齢者のATMを使う自由を制限するちゅうのは決して珍しい事例ちゃう。
本人は自分の自由な意思で選択をしているつもりでも、第三者から見ると違う。
こないな例は数多にある。
就職活動中の学生は、本人の自由な選択として黒いリクルートスーツに身を包んでいるはずやけど、しかし外部からってか、まともに就職活動したことない小生からしたら、社会的な同調圧力によって選択を余儀なくされているのは明白に感じる。
問題はこのパターン、つまり、本人は自由やと思っているけれど外から見ると強制されているように見えるケース。
たとえばオワコンアイドルがAVデビューするんは、第三者の目から見れば、儲けたいんやとかってに考えるのがしばしばある。
しかし、アイドル本人にとってはセカンドチャンスにほかならへん。
チョイまえなら高橋しょうこなんか、AV世界じゃ一世を風靡した。
大量の男性ファンを獲得したいちゅう目的だけを追求するのなら、たしかにセカンドチャンス。
夢の実現に向かう第一歩。
それを第三者から
『あんさん、騙されてマッセ』なんて云っても納得するわきゃない。
バカにするなと怒って当然やし、それは正当な怒りだと思う。
先日、AmebaNews(ひろゆきって兄ちゃんの討論番組)で紗倉まなが怒ってた。
たしかに性産業には、野郎による女子の性を含めた搾取の構図がある。
が、この構図はあくまでも第三者的な視点に立ったときに見えてくるものであって、当事者性が薄い。
だから、単純には当事者からの同意を得られへん。
せや、なぜ、性を売るんがあかんのか?
要約になるかわからんけど、売春は本人の選択か、それとも騙されとるちゅう論点から、反対者は、性産業批判を崩そうとしている。
騙されて搾取されているをは赦さへん、本人の自由で冷静な判断からカラダで稼ぐことを選んでいるんやと、まず最初に主張しとる。
ほんで、パターナリズムを批判してる。
性病のリスク、
将来の転職、結婚の際に障害
になっちまう可能性があるんやと。
性産業にはそれ特有の問題が生じる。
だから性産業で働かんほうが、賢明な選択やと考える人は多いんかな。
しかし、これは典型的なパターナリズムやと思う。
未成年の喫煙とかと同様に、本人には正しい選択ができないから、賢明と自称する人が代わりに判断してあげるべきだ、と考えている。
性産業で働く当事者からすれば、
『おいおい、ボンクラ、バカにするなよ』の反撃で反論終了しちゃう。
それらのリスクを引き受けて、覚悟したうえで性産業を選んでいる方々が多いはずやし、少なくとも本人はそう考えているはずやと信じたい。

そして最後にゃ
性産業を選ぶことが他人の権利を侵害しうるんか。
当然、性産業で働く本人てのは誰の権利も侵害しないと主張するやろ。
むしろ、社会に対する貢献だと主張する。
エンジニアが技術でゼニを稼ぐように、生まれ持った能力を使って稼いでいるだけやと主張するはず。
一昔前なら、性産業は社会に害をなすという意見は至極当然のように流布されてた。
売春婦の娘はどうせ売春婦にしかならへん。
彼らの息子はほら、ヤンキーになった等々。
だから社会の発展に寄与しいひん。
それどころか野郎をたぶらかして梅毒を媒介する存在であり、社会に害をなすなんて差別的な意見がまかり通っていた。
まだ、半世紀もたたたいぐらい前の話である。
現在じゃ、さすがに性産業に対するあからさまな差別的意見はあまり見かけなくなった。
たぶらかしてる野郎側を批判せずに、売春だけを批判するのは意味不明やから。
抗生物質や、特効薬の発達により性病(AIDSを含むのは微妙やけど)の恐怖は少なくなった。
親の職業で子供を差別すべきではないという考え方も根付きつつある。
なら、なぜ性を売ってはいけないのか。
この問に対する論点は、まず
性産業を選ぶ自由は、他者の権利を侵害しうるかをもっと深く考えないきゃ難しい。
金融市場と同様に、もし、性産業が社会に害をなす場合があるのなら、一定の制限を設けるべきやろう。
コロナ禍においての(限定的に)の営業は、自粛すべきかとは思うが。
(濃厚接触中の接触やし)

じゃ、実際にそないな害は生じうるんやろうか。
また、性産業を選ぶことが本人の利益になるんか。
本人の利益にならないとしたら、ふんぞり返った野郎どもが口を出すべきかという点も検証しなければならへん。
たとえ、リスクを覚悟していても、ヘルメットをせずにバイクを運転すれば批判されちまう。
じゃ、こうしたパターナリズムは性産業にも適用できるんやろか。

さらに、性産業が本人の選択ではない可能性についてはどうやろか。
ほんまに、多様な職業選択の自由が担保されたうえで性産業を選んでいるんやろか。
それとも、景気が悪いさかい、その影響で仕事が無くなり、技能・職能のない女子が性産業を選ばざるをえない状況になっているんやろか。
議論の余地は多々ある。

こないな論点にどのような判断を下すかによって、性産業を肯定できるかどうかは変わってくる。

売春は肯定できるんか。
これは答えを1つに絞ることのできない、とても奥の深い議論やと思う。

こないなことが性産業についての一般的な議論やと思う。

ここから先は、余談の個人的余談になるけど。
なぜ、売春は禁忌とされてきたんか。

ほとんどすべての文化圏に、売春婦に対する差別的な言葉がある。
歴史上、神聖娼婦として祭られる場合もあれば、犬猫のように卑しい存在として見なされる場合もあった。
神聖視と侮蔑はコインの裏表のようなもので、特定の人々を日常生活から排除するという点で同じやと思う。

じゃ、なぜ売春は他の職業と同列にはならず、特別視され続けてきたんやろか。
トラウマなどなく、心身共に健康な人類ならセックスが大好きやと究極ならそうなる。
しかし同時に、どの文化圏にも性的に禁欲的な思想が存在する。
仏教然り、キリスト教然りで。
性に対して強い興味を持っていなければ、人類は子孫を残せへん。
その反面、性的な放埒さに嫌悪を覚える人も少なくない。
この矛盾する性質をホモサピエンスが持っているのはなぜかな。
理由の1つは、望む野郎は多いが、また、国が違えばちゃうやろけど、大多数のホモサピエンスは一夫一妻制の中で生きる動物やからやと思う。
乱婚制や一妻多夫制の動物では、オスの精子の量が多くなる。
乱婚や、一夫多妻の動物では一匹のメスが多数のオスと交尾するため、精子の量が少ないオスは子孫を残しにくい。
精子の量を増やす側に選択圧が働くので、オスの精子量は世代を重ねるごとに増えていく。
また一夫多妻制の動物の場合、雌雄間の差異が大きくなる。
ライオンやゾウアザラシのみたいなハーレムを作る動物の場合でも、オスとメスは、ほぼ1対1の割合で生まれる。
そのため、オスは激しい競争に勝ち抜かなきゃ子孫を残せへん。
例えば、ゾウアザラシは、より体格のいいオスだけがケンカでフルボッコにしたアザラシくんが子孫を残せる。
体の大きさに対して強い選択が働いた結果、ゾウアザラシのオスはメスの約4倍もの体重を持つに至った。
じゃ、ヒトはどうやろか。
類人猿のなかでも精子の量はあまり多くないと定説になってるヒト。
また、雌雄の体格差もあまり大きくない。
したがって、乱婚制でも一妻多夫制でも、一夫多妻制でもないと考えられる。
歴史上さまざまな婚姻形態が試されてきたヒト。
ヒトは先天的には一夫一妻制の生態を持っていると考えていいんやろ。

一夫一妻制の動物である以上、性的な放埒さに嫌悪感を覚えるのはごく自然な反応や。
禁欲的な性質てのは、教育の成果だけとはかぎらへん。
生まれながらに禁欲的な個体が相当数いると考えるべきやと思う。
また、人類が性的に自由になって日が浅いからやとも云える。
人類が性的に解放されたんは、ここ数十年だ。
現在でこそ、高性能な避妊具と特効薬により、望まない妊娠からも性病からも自由になった。
しかし、ペニシリンの大量生産が始まったのは第二次大戦中。
祖父母の世代までは、梅毒をはじめとした性病が猛威をふるっていたと聞く。
婚前交渉はきわめてリスクが高かった。
ホモサピエンスには20万年の歴史があるが、しかし性行為を安心して楽しめるようになったんは、ここ2~3世代。
種としてのヒトの生態が変わるには、あまりにも短い時間やと思う。
性的に保守的な個体のほうが性病のリスクを減らすことができるし、不妊に陥る可能性も低い。
性行為に強い興味を示すことと、性的な放埒さに嫌悪感を覚えることとは、どちらも種の存続にポジティブな影響を与える。
せやし、多くの人が2つの矛盾する感情を生まれながらに持っているとしても不思議じゃない。
ヒトの心理的な働きのすべてを、進化的な適応として説明することはできひん。
進化心理学は、じつはわりと危うい学問や。
多くの人は性欲を本能的なものだと考えているが、それを証明するのはかんたんちゃう。
ヒトは教育や社会的なすりこみの結果として、後天的に性欲を手にしているのかもしれへん。
しかし、もしも、性的欲求を本能的なものだと考えているのなら、性的な保守性も先天的なものだと考えなきゃアンフェアになる。
性的な保守性。
性的な放埒さに対する嫌悪感。
こうした感情を、多くの人が生まれながらに持っている。
ならば、これが性産業に対する特別視の原因ちゃうやろか。
性産業に対する職業差別を肯定するつもりはないし、現職者にやめろと説教するのは大きなお世話やとも思う。
しかし性産業を他の職業とまったく同列のものとして扱えるほど、ヒトはまだ進化してへん。

野郎の所有物としての女子の性は解放されるべきや。
せやけど、性に関するあらゆる制限や特別視を撤廃するべきだと考えるのは、性は解放されるべきという後天的な教条によるものであって、人間の本性じゃないやろ。

生まれたままのヒトのあり方を考える時、あらゆる社会的制約のない状態を想定しがちやけど、もし、文明がなきゃ、ヒトは万人の万人に対する競争を始めちまう。
しかし、実際には、文明を持たない野生動物でも、秩序立った群れの社会を作る。
ヒトだけが例外だとは考えづらい。
社会の制約や常識の一部には、ヒトが生得的に持っている習性や本能も組み込まれているはずやし、社会のどこまでが延長された表現型で、どこからがそうでないのか、判断は慎重であるべきかもしれない。
kuu

kuu