新潟の映画野郎らりほう

リチャード・ジュエルの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

リチャード・ジュエル(2019年製作の映画)
5.0
【其は本当にお前の感想か】


最も恐ろしいイーストウッドかもしれない。
本作の所感を述べるには相当な覚悟を要するだろう。
生半可な気持ちでは、全否定されかねぬのだから―「自分自身」を―。


膳立てされた“ストーリー”であるプロファイリングの先入観に囚われ真相(深層)を見ぬFBI。「どうか犯人が興味深い人物でありますように」―真相より“ストーリー性”に引摺られ報じるメディア。その陳腐な“ストーリー”を只鵜呑みする大衆。
其々、プロファイリングに準じたから、FBIが言っていたから、新聞/TVが言っていたから。
他者の考えに只準拠し 何一つとして『自分の考え』が無い。にも拘らず其を自分の考えと“思い込む”。


そして思う。
「新聞が言っていた」同様の他力準拠である「実話だから」の先入観でこの映画を見ている観客達は、彼等衆愚と何が違うのかと。



劇中唯一度ある“回想”。
爆弾炸裂直前から炸裂の瞬間迄が(既出場面であるにも拘わらず態々超高速度撮影で別撮りされ)映し出される。
おそらく大多数の観客がそこに、PTSD / 悪夢 / 仮令といった“被害者的因子”を感取する事だろう ― 先入観に囚われているから。

この瞬間、観客は 自立思考放棄し思い込みに只盲進する衆愚と化す。

もしシネマリテラシー有し ニュートラルな視座があったのなら簡単に気付いた筈だが。
上記場面には全く別の側面『姑息な改変に依る自己正当化の言い訳』もあった事に。


イーストウッドは実話を描きつつ実話を描かない。
リチャードジュエル(ウォルターハウザー)をシロともクロとも描かない。
劇中 幾度も〃も彼の相貌を覆い隠す漆黒の闇、或いは 室内に置かれ 都度彼を映し込む鏡は『この男には未だ識らない顔がある』事を、『前面あれば必ず背面がある』事を表徴する。
表層(のストーリー)だけを見るな、深層を見よと。


リテラシー(解釈/分析)の重要性と難しさを、ストーリー上で語ると“見せかけて、思い込ませて” 観客それ自身を無考察な当事者として告発する。



【脚光浴び恍惚す人の外殻纏いし悪魔】

新聞社主筆室で、スクラッグス(ワイルド)が自身の記事掲載を直訴する。前方の窓ブラインド越しに強い外光が入射し、彼女の相貌全てに注がれる。劇中、人物相貌に照射される最も強い“順光”である。
彼女への“脚光”の暗示だが、ブラインドに阻害された光は 同時に“強い影”も顔貌に刻印していよう。

忌まわしき邪な影に彩られたスクラッグスは、眼を見開き 禍々しい表情へと変貌する。
そのデーモニッシュな相貌は、この者が 記者はおろか 女でも男でも、最早人間ですらない事を表徴している。

先入観囚われ、表層/ストーリーしか見ず、他力準拠に依って《自己亡失》する者の恐ろしさが『自分の考えが無い=自分が無い=人間/スクラッグスでは無い』と、徹底して露骨に ステロに(ある意味解り易く親切に)示されるが、「実話だから」の先入観に囚われた観客、クリシェ/ストーリーだけを見て 深層/メタファーが眼に入らない観客には『人間にしか見えない』のだろう。これが先入観の恐ろしさである。


その挑発ならぬ挑発に簡単に引っ掛かり(実話を描きつつ)実話ではない映画に、脊髄反射的に蔑視云々を宣う輩は 自らの貧相なリテラシーの告白にしかなるまい。


「ジュエル×衆愚」と、「イーストウッド/映画×私達観客」とのequal。

そこには、巨匠/名監督といった“先入観”に依ってジュエル同様に よく識りもせずに褒め称され またろくに深層を見ずに貶し謗られる“イーストウッド自身の孤独な戦い”がある。

「15時17分、パリ行き」でも、犯罪者と英雄との双子の関係性が込められていたわけだが、表層部分に囚われる観客は『究極のリアル』なぞと宣い“深層”を見ない。結果『奥行視角欠如で落第』となるが、其が“自分”に対し言われた事だとは夢にも思わないのだ。


他者に流されリテラシー抜きに 英雄/犯罪/巨匠/駄作扱いするのは何れも誤りである。
凄い/巧い/素晴らしい、上記同様其も単なる“印象”に過ぎない。
其は“立証”では無い。



【証拠を示せ】

此もリテラシーがあれば誰に対して言った言葉か解る筈である。
“印象”を口にする事なぞ容易い。“自分”が無くても出来る。


この映画は問う。
深層を見たかと。表層のストーリーを只撫でただけではなかったのかと。本当に映画を見ていたか。其は本当にお前の感想か。
立証せよと。
そして立証とは 反証についても考察する事《複眼性》である。


惑わされず流されぬ“自分”を持つ事。“自分”こそを信じる事。そして、誰よりもその“自分自身”を疑う事。



映画を見るとは、映画を見る事じゃない。
映画を見る自分を見る事なんだ。




《生涯最高峰級認定/劇場観賞×2》