新潟の映画野郎らりほう

花束みたいな恋をしたの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
2.0
【ハーモナイゼーション】


十把一絡げに言えば『同一人物』の“ビルドゥングスロマン”。

同じ靴、同じ趣味。居酒屋で行きそびれたチケットを見せ合うミラーリング。L/Rに乖離して聴くステレオフォニック。人と類似した似姿/分身を通し、自らの存在を問う事の顕現である押井守。オダジョの膝上で喪失する意識/記憶/身体感覚。新海誠「君の名は」。孤独/不安/悩み等の危機回避切迫性から発せられる幼児性自己中心語=非社会的“独り言”。

いつも自分を肯定してくれた自分(の分身)。
その分身が 自分を否定する、或いは自分が分身を否定する ― 自己客観視/批評眼の獲得。つまりは社会性だ。


半人前の若者が、理想自己の具現たる恋愛対象 ―則ち自身の片影― を追い求めた末、遂に統合し〈一人前〉となる - ビルドゥングスロマン(自己形成の物語)。

L/Rに“解離”していた音は、遂にハーモナイゼーション(調和/社会との協調)し ステレオフォニックを奏でる。
一本〃独立した花々が 協調し合い“花束”に為る様に―。




〈追記〉
同一人物のビルドゥングスロマンを 溶かし混んだと思しき脚本:坂元裕二に対し、監督:土井裕康がそれをどれだけ理解していたのかは疑わしい。
つまり 前述のメタファーは脚本上で機能しているのみで、演出に依ってはまるで為遂げられていないからだ。
鏡面や反射、陰影に対する無頓着さ。海辺でいなくなる菅田将暉と、それを探す有村架純なぞ 構図や配光のみで処理する気概が欲しい。波濤に心象を語らせるとか。何故場面が海であるのか 考えないのだろうか。
映画的且つ内省装置である筈の“列車”の扱いも然りで、新海誠とは雲泥である。2016年を示す記号としてしか思っていない。アニメで自慰描写にまで踏み込んだ「君の名は」に 劣る実写恋愛映画とは一体何なのかと。

脚本と監督。解離するのではなく、調和/協調し(十把一絡げの)花束みたいな映画にするべきだろう。脚本に唯 従属し 自己を稀薄化した監督では、私だって終わりにしたくなる。




〈追々記〉
自己の理想を打ち砕く現実社会にどう対峙するか ― そんな河井継之助、山本五十六を仄めかす“故郷 長岡”をはじめ、種々様々な因子を鏤めた脚本は やはり精良である。
それだけに、それを演出で“昇華”し“映画の花束”としてほしかったところである。
熟、惜しい。




《劇場観賞》