ハル

ダーティハリーのハルのレビュー・感想・評価

ダーティハリー(1971年製作の映画)
4.0
最新作「運び屋」は、クリント・イーストウッドがそれまで培ってきたタフガイのイメージを、良い意味でも悪い意味でも、ぶっ壊してくれた。往年のアクション傑作「ダーティハリー」において悪を相手に44マグナムをぶっ放していたアウトローは、齢90歳を目前として、美女相手に下のマグナムをぶっ放す好々爺となっていたのである。

「おいおい、そっちのマグナムじゃねえだろ!」

と思わず突っ込んでしまったのは私だけではあるまいが、当のイーストウッドはそんなツッコミもどこ吹く風か、円熟味のある演技で私たちを感動させてくれた。それは演技というより、彼自身の私生活の再現だったからだ。

実際のイーストウッドは、西部劇のガンマンでもなければアウトロー刑事でもなく、美女を相手に下のマグナムをぶっ放す、スーパーエネルギッシュな爺さんなのである。せめて、スクリーンの中だけでも、本物のマグナムをぶっ放していてほしい。「ダーティハリー」のことを今更取り上げようと思ったのは、そんな願いからだ。

既に述べたように、「ダーティハリー」におけるハリー・キャラハン刑事は、鹿を殺すための拳銃を人に向けて撃ってしまうような、スーパーアウトロー刑事である。その姿は暴力で物事を解決していた開拓時代のガンマンを彷彿とさせる。それもそのはずで、このハリー・キャラハンなるキャラクターは、「現代に蘇った西部劇のガンマン」という設定なのである。彼は悪を裁くためなら暴力も辞さないが、現代の法律や人権意識はそんな彼の暴走を許すことはない。

アメリカの刑事ドラマ・映画を観ていると、次のようなセリフが出てくる。

「あなたには黙秘権がある」

「なお、供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる事がある」

「あなたは弁護士の立会いを求める権利がある」

「もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある」

これを「ミランダ警告」と言い、アメリカの刑事は犯人を逮捕する前にこれら被疑者の権利を読み上げる義務があるが、ハリーはこれを完璧に無視してイリーガルな捜査を行う。それは彼自身がいみじくも言っているように、「加害者の人権よりも被害者の人権の方が大切」との信条があるためだ。なるほど、それは正しいかもしれないが、法に基づいた判断や行動を求められる警察官が超えていい矩ではない。

この作品の面白いところは、そんなトンデモ刑事に、法で裁き切れないトンデモない悪をぶつけてきたことである。

連続殺人犯スコルピオは、明確な理由や目的もなく人を殺し司法や警察を翻弄する、「劇場型犯罪者」である。これは1968年から1974年にかけて全米を震撼させた「ゾディアック事件」の犯人がモデルになっている。この凶悪犯を、「現代に甦った西部劇のガンマンが裁いたらどうなるか?」というのが、ダーティハリーの基本的なコンセプトだ。それは別の角度から言うならば、「悪を裁けるのは神だけだ」というキリスト教文化圏の価値観を根底から否定するものであり、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」にも同様の構造が見られる。

ハリーは、法律も神も関係なく、あくまで己の信条に従って悪を裁く。そして、純粋な悪としてのスコルピオは、法律でも神でもなく、一人の個人が放った正義の弾丸によって滅ぼされるのだ。

この痛快アクション大作は、その後の刑事ドラマ・映画に大きな影響を与えただけでなく、イーストウッドのタフガイキャラを確固たるものにした。

そんな彼が48年経って真逆のキャラを演じることになろうとは、誠に隔世の感がある。