新潟の映画野郎らりほう

星の子の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

星の子(2020年製作の映画)
4.3
【スターチャイルド】


護岸堤の連絡通路を渡り海岸に下りてゆく ちひろ(芦田愛菜)。その姿が内陸側から捉えられる。
通路開口部に依って 周囲を“フレーミング”されていた彼女は、遮る物何一つ無き溟海の前に立ち 唯 静かに刮眼する―。


冒頭、父母と共に三人で映る写真(フレーム)が、偏見/常識/正義/そして家族 ― 人々が囚われる種々様々な社会的“フレーム/枠組み”を黙示する。
自らのフレームを堅持する事に必死である一方、人は 時に他者のフレームを破壊(叔父)し、時に他者のフレームを排除(数学教諭)しようとする。

列車踏切を渡り寡黙に前に進む ちひろ。彼女の生きる世界/枠組みと 外界との境界線である事が、遮断機/警告音に依って然り気無く示される。
その上で彼女はその枠組みの外へ踏み出してみる。未知を試飲し 外界を確認する ―自分自身で―。

教団周辺に、或いは思慕する教諭に付きまとう如何わしき風聞。
然し彼女は“解ったつもり”にならない。自らの視野を狭めない、限定しない。「そんなの噂でしょ」と。


一つの視座に固執する事なかれ。自らのフレームから出ずに他者のフレームを断ずるな。
数学教諭のつもりで書いた肖像が洋画俳優と為る様に、訝しき宗教も 時に自身の真理と為り得るのだ(盲目従属ではなく 疑符提起やルサンチマンとして)。
昇子(黒木華)の科白「貴女が今 此処に居るのは…」が、思考停止し教義を盲信せよ と、世界を疑い続け思考し続けよ のダブルミーニングである様に、本作観賞者にも ストーリー/現実的視座と テマティスム/ディティール的視座の 複眼/客観性=“超越的視座”が求められよう。


最終局、ちひろと両親はすれ違い続ける。そして 両親の見るものが見えなくなる。それでもちひろは其を見ようと試みる。

作品タイトルは、“宗教団体ひかりの星”の子と、超越的視座スターチャイルドのダブルミーニングである。




《劇場観賞》