Oto

プロミシング・ヤング・ウーマンのOtoのレビュー・感想・評価

3.9
「過去の罪にどう対処するか」という開会式問題にタイムリーな題材。オスカーの脚本賞とだけあって、社会への強い怒りとユーモアを兼ね備えた作品だった。

【応援できる「ゴーンガール」】
コメディとスリラーのミックスジャンルと言われていたけど、印象が近いのは『ゴーン・ガール』。復讐を決意した女性の狂気、身近な人間に隠された裏の顔。でも本作の主人公は信念を持った「ヒロイン」であるのが決定的な違いで、親友のために社会を変えようと行動する姿には、恐ろしさとかっこよさが共存していた。

【プロミシングの功罪】
肝は「プロミシング」。登場人物のほとんどが華々しい肩書きを持った前途有望なエリートであり、彼らは今の地位が奪われることへの強い抵抗感を抱いている。一般的に見れば社会に貢献している人格者であるが、その一方で醜い過去に蓋をしている。監督も語っていたけど、それぞれが単に成敗される悪役では無くて、キャシーと相反する言い分を持っている。

つまり、被害者と主人公以外のほぼ全員、むしろ社会や文化自体を「悪役」として描いている作品なので、辛い息苦しさを感じたけれど、描く内容が現実世界の問題であるだけに、存在すべき作品だと思えるし、自分がライアンのように「罪に加担する傍観者」である可能性についてはすごく考えてしまった。罪の自覚があったらそもそも彼はキャシーに近づいていない。

そんな無自覚な暴力性の被害者が、主役のキャシーとニーナ。彼女たちは対照的に「プロミシング」だった立場を奪われてしまった存在。その苦しさと怒りから逃れられず、前に進もうともがきながらも、「復讐」にその後の人生を奪われてを暮らしているキャシー。「なんでそんなカフェで?」は観客の代弁とも言える。

【当事者と第三者の意識の差】
ハッとさせられたのは「告発のたびに有望な才能を潰すのか?」と言う学長に放った「大切な人の話になると考えが変わるでしょ?」っていう台詞。ライアンは現時点ではたしかにナイスガイだし、同級生たちも他の人たちも極悪人ではないことが伺えるけど、みんなどこかで自分とは無関係だと思っている人への残忍さを持っている。

その象徴が「デートレイプ 」で、クラブで酔ってる知らない女性のことは、「性的対象」としか思わない男性たちと、「自業自得」としか思わない女性たちという構図が浮き彫りにされていた。伊藤詩織の事件でもたしかに、意識をなくすまで酔った自分が悪いという意見をよく目にした。

【風化していく罪への抵抗】
悪を根絶やしにするために社会への復讐を続ける彼女の原動力には、親友を救えなかった罪悪感と、医者という夢を諦めた後悔があるように思えたけど、過去を許して前に進んでほしいと願う家族や遺族の願いに反して、キャシーは本命のミッションを実行する。

その決断へと踏み込ませたのが、最も大切な存在ライアンからの裏切りであるのがどうしようもなくつらくて、隠していたというよりは忘れていたという点にも絶望を感じる。誰にもバレずにやり過ごせるならそうしとこ、ってもっと些細なレベルだと自分も普段やってしまうだけに身につまされるし、加害者側がもっと早く罪と向き合っていれば、キャシーもニーナも亡くならずに済んだ。

【医者になったキャシー】
だけど、キャシーの死後の彼らの対応が最も残酷でリアルに感じて、あれを見ていると甘い対応を続けていてもいつまでも汚い社会は変わらないし、時には身を切ってでも真っ向勝負しなきゃいけないタイミングがあることを知った。みんな悪者ではなくて弱い人たちなのかもしれない、そして弱い人たちはもっと弱い人たちの弱みにつけこむ。だから、キャシーが女性を武器にして決行している姿はまさに世の中の弱った部分を手当てをする「医者」に見えた。(殺されずに済む方法を彼女なら選べたとは思ったけど。)

【暴力性と徹底的に向き合う描写】
アルに殺されそうになっているキャシーをライアンが救いにくるという展開を予想していたけど、黒沢清の言うように「人と社会の分断を描くのが映画」であって、めでたしめでたしでは何も変わらない。それこそフィンチャーのように観客を傷つけて終わらないといけない。

キャシーを殺害するシーンも目を背けたくなったけど、この作品のテーマを考えるとあのシーンは確実に必要で、監督には相当な覚悟があったんだろうなと感じた。ビグローの『デトロイト』の暴行シーンにも似たものを感じたけれど、人の悪さを描くというのは非常に疲弊する作業なので、本当に尊敬。

【不快を表現する巧みな撮影技法】
撮影も弁護士や同級生女性を煽りの広角で撮っていたの恐ろしさがあったし、ランチのシーンでも画面端に二人を配置することで心が通っていない不穏さが表現されていた。ケチャップやワインを血のモチーフとして用いていたり、ジョーカーのように塗るリップ、服の柄のアップや口の中をフェティッシュに撮ったり、美術や小道具も美しい。ファーストカットから不快な股間、終盤の女医に喜ぶ下品な男たちとメッセージが一貫している。

モチーフのIIIIに関しても、後半から突然章立てが始まるの変だなと思ったら、最後に回収されてすごく気持ちよかった。彼女がつけていたノートが映ったときから、インパクトのある模様だったけど、あれが○や✔︎だとしたらこの面白さはないので、細部をモチーフに活かす執念は大事。

【現実世界とのリンク】
五輪関係者が過去の黒歴史を掘り返されて次々に名ばかりの解任が続いているのを見ると、もちろん過去の罪を無かったことにしていいわけではないと思うものの、その罪とどう向き合ってきて今どう生きているかの方が大事なのではないかと思うし、「一生を通じて清廉潔白な人間にしかなにかを作ることは許されません」という非常に恐ろしい前例を作ってしまっていると感じる。

でも、向き合わずとも許されてしまった古い価値観への制裁と捉えると納得できる部分もあって、いじめをした人間はその罪を武勇伝のように語るのではなく悔やんで生きる方が正しいし、誰かを意図的に傷つけるものを作ってしまったら反省して繰り返さないようにするのが正しいとは思う。

人はみんな自分の立場から物事を見ているけど、アーティストを熱狂的に応援してきたファンもいれば、表現や行動に傷ついてきた被害者もいて、その両面を見るのはなかなか難しいことだけど、一方的に誰かが責められたりもてはやされることがない世界がいいと思った。

海外からや国民からどう思われるかばかりを気にして後手後手の対応を続けるのはあまりにもダサいし、信念を持って選んだのであればその埋め合わせがあることを主張してほしいし、そうでないなら反省して改善と継承を行う方が生産的だし、「無害」で従順に空気を読むだけの規律的な集団には所属したくないと思った。

【作品から学んだ教訓】
監督の発想は、「泥酔して持ち帰られる女性がシラフだったら何が起こる?」という単純な問いかけだったらしい。そこから初長編でこれだけハラハラさせる物語を作り上げるストーリーメイキングの力に脱帽するけど、何よりも彼女自身の中に強い怒りや疑問があったからこそ為し得たことだろうと感じる。自分が当たり前にしてしまっている違和感はなにか、忘れたくない大切にしたいものはなにか、誰かを不快にしてでも伝えたいものはなにか。

ただその分、どこか広告的な要素を持っていて、パラサイトほどの没入が得られなかったのも事実。きっと脳内で議論をしている時間が多かったからかもしれないけど、『ルックバック』のような構成上のトリックや意外な伏線回収があったら個人的にはもっと楽しめたのだと思っていて、わからなさがない分映画を観ながらいろいろ考えてしまった。社会派のよしあしだと感じるけど、大満足の傑作でおすすめ。(今年50本目)
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