新潟の映画野郎らりほう

MOTHER マザーの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

MOTHER マザー(2020年製作の映画)
4.8
【傷舐(きずな)】


接見弁護人が 求める“理由/動機/背景”。
狭量な固定観念/常識に事を当て嵌め 自身が“理解可能な物語”にしようとしており滑稽だ。

其の求めは無論、唾棄 或いは当たり障り無き慇懃無礼で以て母子に一蹴される。
この母子の、究極とも云える結びつき ー絆ー は、社会通念なぞで到底計り得ぬのだと―。

其は即ち、現実を参照に 心の闇だとか社会的背景等の 心理的考察に囚われ、挙げ句不得要領連へと陥る本作観客達と、講話説明に依る物語りを拒否し 頑なに“識られざる世界”を表出せんとする大森立嗣との顕在化でもあるだろう。


以下に各場面を振り返り、本作の持つ“神話的”母子像へと迫ってみたい。




急峻な坂道を登攀する息子(郡司翔)の脚に着いた“血”を舐めとる母:秋子(長澤まさみ)。
終盤、成長した息子(奥平大兼)は もう一度坂を登攀し母の下へ向かう ―大量の血を着けて―。

オーラルセックスのメタファーが感取出来る冒頭に対し、より多量の血を纏い母の下へ辿り着いた息子に与えられる恩賞とは、全身を舐める/愛する ー 精神最深次元での“結び付き”〈セックス〉であろう(次カットが“寝床に横臥する母子”であるのは 其の証左に他なるまい)。

この科白の無い僅か数カットのシークエンスで、それまでの複数の男とのセックスや 周平への愚挙が一気に意味有るもの ―母への近親相姦的独占欲/オイディプス、父無き性的葛藤/エディプスコンプレックス― として立ち上ると共に、ある場面を想起する―。



【唯 抱き締められる為に】

母の居ぬ一室で停電に見舞われ心細い表情を浮かべる周平。其の対照を挙げるなら、神社境内で母に無言で抱き締められる場面を措いて他に無い。
安易回想なぞ用いずとも、スローモーション/フェードアウト/強調されていた環境音から無音への遷移 等の“紐付け”に依って 観客自身に直截的フラッシュバックを起す ― その見事さ。
其処には、唯 母に抱き締められる事を希求する男児の“根源的命題”がある。


全ての事が終わり挿まれるエピローグ。其処での秋子と周平の満たされた(オーガズム)表情に、社会的尺度なぞ、否 言葉すらも 無意味で無価値な事を思い識り立ち尽くした…。



〈追記〉
生の渇望を表出する即席麺の乾いた咀嚼音。神社境内頭上樹木の噪音等 音響用法をはじめ、岩代太郎の手に依る劇伴も極上。




『俺の子だな?』―川田(阿部サダヲ)

『妹の冬華はどうしていますか?』―周平

……

冬華は、“いもうと”ではないかもしれない…。




《劇場観賞》