Oto

ファーザーのOtoのレビュー・感想・評価

ファーザー(2020年製作の映画)
3.9
認知症の当事者の視点で物語を断片的に描くという斬新な作品。彼の感じる恐怖や困惑がそのまま伝わってきて、ここまで心をかき乱される体験は久々。

酔っ払いの視点で描いた『ハングオーバー』、健忘症の視点で描いた『メメント』、耳鳴りを再現した『ベイビードライバー』...。特殊な感覚を持つ人の主観の視点で描かれた物語って色々あったけど、これはありそうでなかった。

自宅のキッチンから出たら、知らない男が自分の部屋でくつろいでいる恐怖。長回しで彼の生活を捉えるカットから始まるので、自分たちもアンソニーと同じ時間の流れで生きているので同じ驚きを得ることになる。
同じシーンが何度もループして、もう聞いたことのある話を繰り返しされる困惑。明らかにおかしなことが起こっているのに、周りは平然としていて、むしろ自分がおかしいと責められてしまう。
せっかく誰かと打ち解けられたと思ったら、顔も声も違う人が同じ人間として自宅に現れたり、お気に入りだった絵画が何の承諾もなく外されていたり、娘の言うことが二転三転したり、誰も信じられなくなっていく。
全ての時系列をメモで記録しておいたらどうなるんだろうとか思ったけど、彼が常に時計を欲していたのはそういう気持ちなんだろうなー。。

てっきり最後にあらゆる謎が回収されて終わるんだと思ったけど、アンソニーの立場で考えたらこの終わり方が正しいよなと腑に落ちた。娘はもういないのか、夫は一体どちらなのか、介護の女性はなぜ来ないのか、腕時計はどこに行ったのか、真実はもはやわからないし、聞かされたところで信じられない。
脚本の形式にほぼ則っていないし、むしろずっとアンソニーがひたすら困り続ける単調ともいえるような物語で、脚本賞とったってかなりエポックメイキングなのではないかと思う。どんどん人間の本質に迫っていくような恐ろしさを感じさせる。
うちの祖父も晩年認知症を患って、父が会いに行くたびに「新しい嫁さんもらってよかったな〜」って言ってたけど、こんなに恐ろしくて不思議な病気を80代を超えた非常に多くの人が患っていると考えると、人間って複雑で不完全な生き物だと思う。「人と出来事を共有できない悲しさ」。

娘夫婦の視点でも描かれているのがフェアだけど、「どちらが悪いわけでもない」の典型なのでこれも辛かったな。相手の立場になって考えるを本当に実践できたら大抵の問題は解決しそうだと思っていたけど、そのような追体験を表現できてしまうのが映像の面白さであり恐ろしさ。これだけの残酷な企画を実現できるのは優しさあってこそだと思うけれど。
必死で介護している中で、盗みをはたらくなとか、お前が間違っている、ここは俺の家だとか、知的な自分を馬鹿にするなとか、最終的には人間性まで否定されるようなことを言われてしまったら、自分は耐えられないだろうなと思った。親の年齢を考えると他人事じゃない。

最後に赤ん坊に戻るというのは『2001年宇宙の旅』のような生命の輪廻なんだろうか。すべてがわからない状態に戻っていくという人間の性。クラシック音楽のCDがずっと使われていたけど、通常は問題なく回り続けるものが同じ箇所を繰り返したり、再生できなくて停止したり、モチーフとしてわかりやすいし、チャーミングさと鬱陶しさが同居した芝居は本当にあっぱれ。

元は戯曲と聞いたけど、ほとんどが家の中で完結する物語なのも見事な脚本だな〜と唸った。廊下や窓をベースとして、配色が変わったり、配置が変わったり、扉の奥にあるものが変わったり。彼の見ている世界を体感するのに大きな世界は必要なくて、家に知らない人がいるというだけで十分恐ろしい。むしろ娘の顔すらも正しいのかは分からなくて、そこには自分が求めている誰かの像が重ねられているのかもしれないとすら思わされる。
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