新潟の映画野郎らりほう

望みの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

望み(2020年製作の映画)
1.0
【父親失格】


葬祭場に赴く一登(堤真一)が、その旨を妻:貴代美(石田ゆり子)に伝えた後、自ら自動車を運転し目的地へ向かう。

上記場面を見ただけでも、作品の志しの低さが諒解できよう。


ネクタイを締める、或いは靴紐を強く結ぶ ー 葬儀に参列する覚悟/勇気は それら“行動”に依って示されるべき筈である。そして、これから何処に出かけるのか ー の夫婦間やり取りも、アイコンタクトだけで済ませられるだろうに。既に礼装で一目瞭然なのに説明せずにはいられない。
そして、決戦の地へマイカーで向かうなよと。
自宅玄関扉を開け、外へ踏み出す一歩。葬祭場へ足を踏み入れる一歩。父親の決意/誠実さを 如何に具体/身体化し刻印するか。それが映画であって、本作は悉く『脚本の絵解き』唯 それだけに留まる。
結果、映像は重層多角化せず 表層一義に終始する。



葬祭場を後にした堤真一が駆け出すが、今更であり 且つ携帯着信に依る受動的行動である。そんな“非自発的行動”をスローモーション化し悦に入るセンスの無さ。

前述のマイカーといい携帯の連絡待ちといい、この男は何らの奮励も行わない。
にも拘らず息子には得意気に説法を垂れる。行動伴わぬ口先のみで。


顔面偏重/表情演技/講話主義。
引き出しを開ける、書籍の項を開く ー 其れだけで息子の想いを諒解できようが、そこに回想を挿し込まなければ気が済まない。
其れを見ただけで気付く父と、一から十まで回想してもらわねば気付けない父では、どちらが父たる者かは自明であり、そう思われても致し方あるまい。
仮に全カットしても作劇上何の問題も無い「説明の権化でしかない三浦貴大」。
まあ説明してもらわねば解らぬのだろう、この父は、そして観客は。

理想の家(族)を設計する建築士。であるならば、家屋や写真のモチーフはあの程度で良かったのだろうか。それら作品への疑義は数限りない。


言い訳(説明)をしない息子を、受動的説明に依拠せず 自発的に慮る。父も、観客もそうすべきである。
その主題を、演出が全て裏切っている。


息子を信じる信じない以前に、監督自ら 観客(の理解力)を信じてやれよ。




《劇場観賞》