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オールドのkuuのレビュー・感想・評価

オールド(2021年製作の映画)
4.1
『オールド』
原題 Old.
映倫区分 G.
製作年 2021年。上映時間 108分。

ナイト・シャマラン監督(カメオ出演好きやなぁ)が、異常なスピードで時間が流れ、急速に年老いていくという不可解な現象に見舞われた一家の恐怖とサバイバルを描いたスリラー。
主人公一家の父親役をガエル・ガルシア・ベルナルが演じ、ビッキー・クリーブス、トーマシン・マッケンジー、アレックス・ウルフらが共演する。

人里離れた美しいビーチに、バカンスを過ごすためやってきた複数の家族。
それぞれが楽しいひと時を過ごしていたが、そのうちのひとりの母親が、姿が見えなくなった息子を探しはじめた。
ビーチにいるほかの家族にも、息子の行方を尋ねる母親。
そんな彼女の前に、
『僕はここにいるよ』と息子が姿を現す。
しかし、6歳の少年だった息子は、少し目を離したすきに青年へと急成長していた。
やがて彼らは、それぞれが急速に年老いていくことに気づく。
ビーチにいた人々はすぐにその場を離れようとするが、なぜか意識を失ってしまうなど脱出することができず。。。

M. ナイト・シャラマナンの『オールド』は、かなり示唆に富み、佳く出来た作品でした。
まなし痛烈で、常に深遠。
今作品の多面的で隠喩的な人生への調停は、ある瞬間にはグッと魅入って、次の瞬間には妙に悲しくなり笑ってしまった。
今作品は、喜びの涙はすぐに悲しみの泪に変わり、そしてまた喜びの涙に変わる。
そんな今作品は、個人的にはスリリングでサスペンスフルな感情を生々流転させる善き作品でした。
しかし、見ながらド頭ちょいと回転数あげなきゃ『なんでやねん』と自問しながら、混乱に帰してしまいそうやったかな。
正直、シャラマンの天才的な才能を十分に理解するには、それなりに高いIQが必要やし、それで気を落しそうにはなった。
しかし、その天才の深さについて今作品は、これまで現代映画では見られなかった複雑な層で愛情を込めて構成されてて、まさに現代映画製作の『創世記』であり、知的適性を問わず、家族全員が楽しめる内容にはなっていた。
驚異的な撮影技術、シャラマンの不器用で不格好なカメラワークは、優れた映画撮影とは何か期待を裏切り、先入観を一掃して自らの愚かさを叩きつけてくる。
おそらく、すべてが最初に見たとおりになるわけではないということのメタファーであり、全体として非常にうまくプロットに結びつけているんやろな。
ほんま驚くべきことです。
また、今作品の俳優さんたちは演技は巧みでした。
と云うんも、映画が成長するにつれて、それぞれの登場人物が個人的なレベルで自分に語りかけ、他のキャストとは対照的に自分の考えを観てる側に投影しているという圧倒的な感覚を得ることができるからです。
これによって、言葉では云い表せないようなつながりが生まれる。天才やなぁ。
個人的にはかなり嵌まった作品でした。
余談ながら本作品は、作家のピエールオスカルレヴィとアーティストのフレデリックペータースによる2010年のグラフィックノベル『Sandcastle』
を映画化したものだそうっす。
この本を映画化するきっかけを聞かれたM・ナイト・シャマラン監督は、
『この本は、死や老い、そして両親が年を取ることに関して抱いていた多くの不安を解消する機会を与えてくれた』と述べたそうです。

あとはネタバレに抵触してることを織り交ぜ徒然に書きますが、まだご覧になられてないなら、この先はスッとばしてください。
🙇🙇‍♂️🙇‍♀️。

今作品は老化を加速させる。
観てる側は数十年があっちゅう間に過ぎていくことを簡単に受け入れてしまう。
シャマランはこの物語上の条件を巧みに利用して、登場人物に起きていることの現実性を補強している。
子供たちが幼い頃、
ティーンエイジャー、
20代、
そして、最後に、年老いた両親がこの世に別れを告げようとする最後のバケーションなど。
ライフステージを通して家族が休暇を過ごす様子を見ているようで、彼らの老いはほとんど映画としてふさわしいと感じられる。
今作品の本当の魅力は、登場人物たちの激しく早い老化を見ながら、同時に自分自身の早い老化を振り返ることができたときに初めて得られるかな。
今作品の登場人物たちは約30分ごとに1歳ずつ年をとっていくが、あっという間に一生を終えてしまったような気がするっちゅう恐ろしいことを、年齢が上がれば上がるほど考えてまうと思う。
ビーチを超常現象のフィクションとしてではなく、人間として誰もが通るべきステージのリアルなメタファーとして考えると、今作品は人生と家族の尊さについての洞察と人生訓、そして哀愁に輝いて見える。
このように読むことは、この映画を過度に創造的に解釈しているわけではないかな。
明確な意図があると思う。
妻であり母ちゃんのプリスカ・カッパはオープニング・シーンで、子供たちに
『今を大切にしなさい、将来のことを考えるのはやめなさい』
みたいな事を云う。
映画の冒頭シーンには、時間と老いについての対話しかない。
末っ子のトレントは、
『いつになったら着くの』とぶつくさ云っている。
娘のマドックスは、死の必然性を歌にする。
But Cupid’s an archer
His violent departure
Leaves us at the altar
Wounded, weak, and ready to bleed

I’ll wash away some day
No monuments made in my name
There is no life I’d trade
You were my reason to remain
And I will remain
Through comfort and pain
Till I wash away

You are all that I can see
Alone I’m obsolete
Evеry fight is purgatory

Stripped of the armor
We plеad and we barter
We stray from our harbor
Searching for some false remedy

一方、母親は
『大きくなった娘の声が早く聞きたい』
と云いながら、
『みんな今を生きなきゃ』
と矛盾したことを云う。
興味深いことに、この曲はシャマランの実娘でレコーディング・アーティストのサレカが、父ちゃんの脚本を読んで今作品のサウンドトラックのために特別に作ったものだという。
歌詞は、この映画の内容を見事に云い表していると感じる。
今作品は、時間についてのホラー映画であり、どんなに強い愛であっても、やはり一過性のものであるという事実の煉獄である。
あるいは、サレカの歌の美しい言葉にあるように。
傷つき、弱り、血を流す準備が出来ている
我々は懇願し、物々交換し、偽りの治療法を探す
洗い流されるまで
と。
ホラー映画での悪役は、怖い怪物、妖怪、幽霊あれ、狂った連続殺人犯であれ、我々に恐怖から安全な距離を提供してくれる。
しかし、老・生の恐怖は、我々にとって現実のものである。
身動きがとれず、体(細胞)の腐敗を止められず、死によって互いを失うというカッパ一家の状況は、我々の運命でもある。
映画の終盤、マドックスとトレントの父ちゃんガイは妻に
『思い出せないんだ。なぜこのビーチを離れようと思ったのか』
と、これは、
『この瞬間を無駄にするのはやめよう』
ちゅう先ほどの妻の言葉を真似た、冷ややかなセリフである。
現代社会では、誰もが不安に駆られ、この地球上の時間がどんなに短くても、それは美しいものであり、手遅れになるまで気づかないことが多い、はぁ勉強になったなぁ。。。
また、今作品が何よりもまず家族と愛についての映画であるという事実だけで、シャマランは純粋な功利主義に対する反論をしている節が見られるかな。
今作品に登場するウォーレン&ウォーレン(製薬会社)は、社会のためになる仕事であるにもかかわらず、人権の本質を侵しているように見えるし、我々は共感しえない。
我々が共感するのは、浜辺で立ち往生している人たちの人間的な物語の方。
彼らの生きた経験
苦しみ、愛、道徳の哀しみ
は神聖で、どんな科学的な革新よりも重要であると感じる。
レフ・シェストフ(ロシア系ユダヤ人の哲学者)の宗教的実存主義の響きを持つ妻のプリスカは、現代の有名な2人の哲学者の欠点についての本を読んでんのは、個人的に興味を持った。
シャマランは、このテーマに関するイースターエッグ(隠し要素・メッセージ)を仕込んでる。
作中ビーチで妻のプリスカが読んでいるのは、
歴史家キャロル・シーモア=ジョーンズの『A Dangerous Liaison(危険な関係)』で、実存哲学者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルについて非常に批判的な伝記で、作中で開かれているページは、まさにサルトルと友人のアルベール・カミュの共産主義に対する見解をめぐる対立が深まっていく様子を描いたもの。
キャロル・シーモア=ジョーンズは、サルトルがより高い政治的目的を理由に、彼の思考における暴力を正当化するようになったことを説明している。
スターリンの策略は、革命を守りたいという願望によって決定されたとサルトルは主張する暴力は『後退』やけど、暴力の世界では避けられないものである。
彼は、目的が手段を正当化することを受け入れるという危険な一歩を踏み出した。
さらに、このページで、シーモア=ジョーンズはカミュの『目的正当化手段』の政治哲学への幻滅を引用している。
サルトルもハムレットのように共産主義への道を逡巡していたが、カミュはその試練を投げ捨てた。
テロは、『目的は手段を正当化する』という原則に同意する場合にのみ正当化されると彼は『戦闘における犠牲者でも処刑者でもない』の中で書いている。
マルクス主義の観点からは、何億人もの人間の幸福の代償であるならば、10万人の死体など何でもない。
製薬会社の科学者長は医療活動のニヒリズムを暗示しているように思える。
シャマランはこの本のページを娘の曲『Remain』の歌詞のように多かれ少なかれ判読不能にしているけど、このページは、この映画の核心にサブリミナルに切り込んでいる。
全人類のためのユートピアを代償にするならば、何十万もの死体も構わないんか。
それとも、暴力によらないより良い社会への道があると信じているんやろか。
シャマランの答えは曖昧やけど、十分に明確や。
我々は、純粋に統計的な見地からウォーレン&ウォーレン製薬が倫理的であることを知っている。
それでもなお、トレントとマドックスが逃げ、彼らを倒したことを応援し、喜んでいるのは、それが何か間違っているとわかっているからです。
なぜか?
今作品が提示する答えは、人間に関して云えば、科学のプラグマティズムを超越したユニークなものが我々全員の中にあるからやと思う。
愛の精神、それを超自然的と呼び、魂と呼ぶものが。
まぁ兎に角深い作品でした。
kuu

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