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ドライブ・マイ・カーのymdのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
5.0
本作は日本映画におけるゲームチェンジャーであり、本作以前と以降で日本の映画の在り方は大きく変わるはずである。

少し尻込みする長尺だけど、再生ボタンを押した瞬間からそんな杞憂は吹き飛び、その濃密な空間に一気に引き込まれる。

村上春樹はそれなりに好きで大体の小説は読んだ上での鑑賞なのだけど、この映画は村上春樹の独特な世界観を濃縮化させることに成功していると感じる。

なので村上作品に対する耐性が無い人、興味が無い人にとってはそれなりに苦労が強いられる(というか違和感を抱く)作りになっていることは間違いない。あの無機質でいて示唆的なムードは一般的に“邦画”と括られる作品群とは趣が大いに異なるのである。

本作は小説『女のいない男たち』の短編たちのセンテンスを抽出して描かれたオリジナルの脚本になっており、単に小説を映像化しただけのモノにはなっていない。

その脚本の巧みさは濱口竜介という監督の審美眼が機能しており、二つの大きなテーマが通奏低音として3時間ずっと地鳴りのように鳴り響いているのである。

それはつまり、人の営みにおける何かを赦すことと受け入れることについて、ということにある。本作の決して多くはない登場人物は皆、心の奥底に受容し難い問題を抱えている。

そして本作の主題は、その問題が他者に対するものであったとしても畢竟、全ては自分がどう向き合うか、という点に集約されており、家福(西島秀俊)と渡(三浦透子)は車という閉塞的で特殊な空間を共にしながら次第に自らを披瀝し感情を露にしていくのである。

この『ドライブ・マイ・カー』が何より素晴らしいのはその深層に横たわる感情の発露をロマンティックに描くような下手に出ることはなく、じっくりと時間をかけて丁寧に言葉を紡いでいくその過程の描き方にある。

だからこそクライマックスの情動的なシークエンスには凄まじいほどのエモーションが宿るのであり、家福の車を走らせる渡と併走していた我々の胸を打つのである。

もう一つ本作が主題として掲げるのは、コミュニケーションである。
家福が演出する舞台は多言語を用いた独特な構成なのだけど、本作はこの劇中劇をメタファーとして配置しており、その構造は画面を見つめる観衆にまで波及している。

欠陥を抱えたコミュニケーションを俎上に乗せてその困難さを提起しながらも、逆説的に「一般的なコミュニケーション」に対しても疑問を投げかけてくるその脚本の妙に唸る。

オスカーを巡る話題によって作品の持つ魅力以外の要素が様々な形で歪曲的に露出してしまったわけだけど、それでも本作が唯一無二の大傑作であるという評価は揺るぎない。

日本映画はまだまだ更新し続けるし、していかなければならない。
寡黙ながらも確固たる意志が宿った圧倒的な映画。この先何度も見返すことになるだろう。
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