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ゴッドファーザー(最終章):マイケル・コルレオーネの最期のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

4.7

このレビューはネタバレを含みます

 このシリーズは、かくして終わりを迎えた。しかも相応しい形で。全て余すことなく満足して劇場を出るに至った。前作から16年越しということで、演者は年を取ったし、同窓会的な親しみの眼差しと、揺るぎない演出力にまたもやられた。ちなみに今作は劇場公開版ではなく再編集された最終形で、分数も短いそうだが、全然見れた。いつか比較してみたい。問題なのは、「地獄の黙示録」にしろコッポラは再編集が多すぎることである(まぁ複製芸術の運命なのかな)。ただ、冒頭暗闇から始まって、あのテーマ曲を流すのは天才的すぎる、あのテーマに浸ることで、過去のあれこれを、業を思い起こさせる。

 過去の映像を使わずとも、喚起すればすればそれでよし。あらゆるシーンは過去作と明らかに対比され、オマージュが捧げられている。今目前にするどのシーンもそれらの影を拭い去ることができない。冒頭の会話にはヴィトーと葬儀屋の告白シーンが被る。その後のパーティシーンは、シリーズに一貫する華やかさと影の対比を思い出させる。ある店の前に停められた車のカットは、マイケルの最初の殺しをしたレストランと同じ画角で撮られていた。ジョーイ・ザザが殺られた街は、若かりしヴィトーのいた街に似ていた。それらは、ただ想起させるだけで完全な対比構造になっていない。ただ、やはりかつてこのシーンが殺人に繋がったなぁと思い出し、あぁ、今見るこのシーンも実に不穏に目に映るわけである。回想シーンなど無くても、もはや事足る演出力なのだ。

 もし「蜘蛛巣城」の鷲津武時が殺されなかったら?それは冷徹なカリスマ性を失い、糖尿病に犯され、悲劇的な結末に喘ぐ姿なのである。それが今作のマイケルだ、と私は思う(なんでも映画史の文脈に組み込みたくなる悪い癖です。ただ、コッポラが一作目を「悪い奴ほどよく眠る」からのインスピレーションを受けていることからも、黒澤作品とは切っても切れない何かを読み取らずにはいられないのだ)。ある時、糖尿病の発作で彼は倒れかける。後々糖尿病とわかるが、ここではある種の取り憑かれ錯乱した、精神的な要因かと我々は最初誤解する。彼は「雷の音ぐらいなんだ!」と、その因果関係を雷のせいにしたりする。彼は、自身の病気を天の災いに結びつけている節がここで窺える。つまり、当人は天罰を受けているという自責の念がどこかにあるわけだ。その後、「フレド!」と大声で叫ぶ。あのボートの上のフレドの暗殺シーン後、マイケルはただ眺めていただけだった。その無情さから窺えなかった感情がこうして発露されることで、不意に涙してしまった。「part2」のラストで失われた感情が、こうして呼び戻されかつ彼を未だ苦しめていると思うと泣けた。

 その後、罪の告白をするシーンがある。そこでまたしてもマイケルは発作を起こしかける。そこで糖分を得て血糖値を保つのに必死にキャンディをしゃぶったりジュースを飲む姿の滑稽かつ悲哀な姿。一方には枢機卿という神に仕える者がいて、一方には甘いものを食らい必死な形相の男がいる。それは、そのまま神と人の象徴的な構図なように思えてならない。マイケルは実際、金を動かし人を殺し、こうして生にしがみつく生き物としての人間らしい人間なのである。そして懺悔、一番最後、言い淀んだがついぞ認めた「フレド殺し」にマイケルは泣き崩れる。ここでまた私も同じく泣き崩れるのだが。

 宗教の裏側と真理。今シリーズは通して見てもキリスト教を徹底的に陥れ断罪しようという意思に貫かれている。ただ、じゃあ神がいないかというとそうとも思っていないようだと思う。人が関わる神に祟りありなわけで、実際のそうした宗教と政治とカネが絡んだ教皇ヨハネ・パウロ1世の毒殺と、ロベルト・カルヴィ暗殺事件が今作では取り上げられている。人の矮小さはここでも強調されている。しかし、全編に渡ってみてきたマイケルの人生の業の深さを、まさに”業”と呼ぶだけあって因果や運命を感じずにはいられないのである。ラストの因果応報は、罪を許してもらいたいと思っていたマイケルの願いに奇しくも対応している。しかし、それはあまりにも残酷なわけである。そして、今まで抑え込んでいた感情、カタルシスがここで訪れるわけだが、観客は前作で求めても流れなかった涙を、悲痛な形で彼から引き出したかのようで、居た堪れなくさせられるのだった。またコニーが、自身が子の名付け親に夫を殺されつつ、自分もまた自身の名付け親を殺すという残酷な因果がここにあった。

 撃たれた娘、二重の悲劇と真の思い。愛する者を殺す映像には、「メメント・モリ」的な教訓を自己に植え付けようとする監督の心の動きがあるように思う。ゴダールは、「気狂いピエロ」にて妻のアンナ・カリーナを主人公に撃たせたが、それは殺す願望の現れというより、自己への警句だったのかもしれない。その後の主人公の後悔と自嘲たっぷりの自殺には、殺しの正当じゃなさが克明になっている、とも取れる。最近、人の死をスマホで撮影するのは、倫理観の無さからではなく、普段触れることのない死を自身に警句として持ちたい願望からなのではという説をSNS上で見かけた。それを踏まえて今作を振り返ると、マイケルの娘メアリーを演じるのはコッポラ監督の実の娘ソフィア・コッポラであるわけで。そこには上記の「気狂いピエロ」のような、現実の関係性が映画と結びついているように思える。今作の一大悲劇であるメアリーの死は、マイケルだけでなくコッポラ監督自身にとっても悲劇なのだ。あの胸を血で赤く染めたメアリーがカメラにやや正対して「お父さん…」という姿は、コッポラ自身にも向けられているのだ。映画監督とは一番の悲劇を映し出さずにはいられない性があるのかもしれない。

 にしても、ソフィア・コッポラのあの口元の一方の口角は上がってもう一方が下がっているというミステリアスな表情は素晴らしい。あどけないのに色気もあってというアンビバレンツさが危うさを醸す。なぜか彼女の演技が酷評なのだが、確かに配役としては浮いていたのかもしれない。ただ、父コッポラとマイケルを結びつける交点の役目として絶対的な立ち位置であると思う。強いて言えばペンネ(?)をネリネリするシーンだけオモロすぎた笑。

 ラストのクロスカットにはヒッチコックの「知りすぎていた男」のようなサスペンスフルな展開と、今までのシリーズの後半の華麗な畳み掛けが窺えて、ファンを喜ばせる。それだけでなく、マイケルの華麗な殺人劇とコッポラ監督のクロスカットの華麗さ両方の手腕をありありと見せつけられ、形式と内容ともに「待ってました!」状態なのである。そこでやはりここでも監督とマイケルの両者に求めるものが一致するわけで、この二人は今作でより結びつきが強くなったと言える。

 前作、堕胎という思いテーマがあった。今作のラスト、死に損ねたマイケルは「part2」同様に庭で一人いる。サングラスを掛け、あの露出して枯れた目を窺わせまいとする。その後字幕で「シチリア人が”永遠の幸せ”を願うとき、それは”永遠の命”を意味する。シチリア人はそれを忘れない」という言葉で幕切れする。つまり、生きるマイケルには永遠の命があるわけで、皮肉にも永遠の幸せがあると言われるのである。そして前作で問われた生まなければよかったという懸念は、永らえるマイケルの命によって打ち消される。それは幸か不幸かなんて語るには、あまりにも巨大なテーマであったと、三部作全てを通して実感するのだった。
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