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異邦人 デジタル復元版のkuuのレビュー・感想・評価

異邦人 デジタル復元版(1967年製作の映画)
5.0
『異邦人』
半分借りパクになってた『デカローグ』と数点の映画を返して欲しいって云われたし、これも借りてた一点やったし、もう一度見返しました。
ノーベル賞作で敬愛しますアルベール・カミュが1942年に発表して、人の心理に潜んどる不条理て云う意識を巧く描いとる小説『異邦人』を、イタリア映画界の巨匠ルキノ・ビスコンティ監督が映画化。
第2次世界大戦前のアルジェ。
会社員のムルソー(この名前にカミュはMeurt 死ぬ と、隠喩的?に Meur =la mer海と le meurtre殺人 sault=le soleil太陽に込めたらしい)のもとにママン(母ちゃん)の死の知らせが届く。
葬儀で涙も流さへん彼は
翌日、元同僚の女性と喜劇を見に行き夜を共にする。
その後、友人とトラブルに巻き込まれちまったムルソーは預かっとったチャカ(拳銃)でアラブ人を殺ちまう。
太陽が眩しかったちゅう以外、ムルソー自身にも理由は明かさず、非人道的で不道徳だと非難されよった彼は裁判で死刑を宣告されるが。。。
生きることに無関心なムルソーをマルチェロ・マストロヤンニが好演しとる。
1967年に製作された、英語版す。
余談ながらこれはカミュの親戚のツレから借りたモンす。
余談の横路すが。
『実存主義』てサルトルが有名かな?
せや、小生は敬愛してる男前のカミュのを挙げたいし、大好きな映画す。
彼の作品てのはしばしば
『実存主義』
ちゅう名で呼ばれとって、文学・思想史的に、実存主義の指導者サルトルとひと括りにされちまう腹立たしさが小生にはある。
せや、カミュの小説作品とサルトルの小説作品じゃ、感覚的な受け方は全くって云ってええほどちゃう。
サルトルの長篇小説『嘔吐(おうと)』てので、主人公ロカンタンは、グレーの曇り空の下、冷え冷えとした港町で一心に図書館にいって、物を書いたり調べたり思索したりするような毎日を送っとる。
小説の全体がなんか閉鎖的でいて、内向的な印象を読む側に感じさせる。
ほんで、サルトル代表作の短編小説『水いらず』じゃ、主人公の女男が閉ざされとる空間の中で肉体を接して向かいあって、出口すらない関係を生きとる。
しか~し、カミュてのは、そうした暗~ぇ生き方を描くようなタイプの作家じゃない。
カミュの場合は、まぁ人間てのは複雑な状況に直面したら苦悩すっこともあるし、痛みを感じることもあるけど、海や太陽って云う無条件のエネルギーのデカイ源泉みたいなモンに出会った時、
そこへ『己を開いてく』ような感性があるんやなぁ。
そないな未知のモンに己を開放してく感性の柔軟さや開放性てのが、カミュの小説がサルトルのそれよりも普遍的な翼のような広がりと、包容力をもつと感じられる所以ちゃうかな。
実存主義ちゅう、人間の悲しくエグい条件を直視する哲学的傾向の中にあっても、カミュの場合は、どこかにそないな世界の未知なる多様性がもたらしよる救いみたいなことがあるってことを、烏滸がましいけど、作品に触れたときまず押さえておいたほうがいいんかもしれへん。
そこにゃ、俺たち日本人の自然観にも通じあうものがあんのとちゃうかと思う。
ただ、軽く自然のもたらす救いの感覚って書いても、海と太陽とやったら、カミュにとって若干ニュアンスがちゃう。
小説『異邦人』てので、主人公ムルソーが不条理な殺人の動機を
『太陽のせいだ』ちゅうユーメー場面があるけど、
太陽は、明るい光をもたらすんと同時に、人殺しにまで至らせちまうような激しさももっとって、時として人の攻撃的な感情を高揚させよる。
かたや海のほうてのは、むしろそれを鎮めてくれよる場所。
砂漠で灼熱の太陽と向きあやぁ、人は渇いて死ぬしかあらへんけど、海の中に入りゃ、生が解放されるみたいな感覚を得ることができる。
『異邦人』にも、またこの『ペスト』にも、印象的な海水浴の場面が出てきよるし、観てる側に救いの感覚をもたらしよる。
こないなカミュの謂わば『地中海性』てのは、哲学的にゃキリスト教以前のギリシャ哲学に遡ることができるとおもいまっし、
カミュちゅう作家の知性と身体の両面における重要な要素やとおもう。
古代ギリシャ人の、自然と調和した汎神論的な世界観への共感と憧れてのは、地中海人のカミュの心身の根底に息づくいとるモノのような気がしやす。
因みにカミュとサルトルてのは、後に思想的に対立しよって、論争の末に絶交しちまう。
多くが文学的なカミュよりも、政治的なサルトルのほうに目を向けがちやけど。
スターリンの恐怖政治へと至りよるマルクス主義のイデオロギーてのや、革命による暴力や殺人を批判しとったカミュのほうが、現代では正しく映ってるし、きわめて真っ当な感覚を有していたといえんのとちゃうかな。
たとえ歴史の名のもとにやった革命ちゅう大義であっても、人殺してのは絶対に認めないちゅうカミュは、左派の知識人がマルクスや革命を金科玉条とする時代にあって、どんなに周りから反動やと叩かれ、孤立することになっても、暴力や殺人に『non』って云い続けた、そこにゃ人間として本当に信用できるところやと思います。
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