新潟の映画野郎らりほう

クライ・マッチョの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

クライ・マッチョ(2021年製作の映画)
5.0
【 アイロニア 】


開幕早々、マイク(イーストウッド)の相貌が車内ルームミラーに映り込み(二面性)この映画に『もう一つの世界/もう一つの意味』がある事を示唆する(ダブルミーニング)。

馬の彫刻があしらわれた厩舎に到着するマイク。
「アメリカンスナイパー」「人生の特等席」「15時17分、パリ行き」ー イーストウッド作品で馬は“天命”を象徴する。そこで彼が告げられる天命が“死刑宣告”だ。



劇中の“国境”を額面通り国境と受け取る者なぞいやしまいが、もしいればシングルミーニング/ステロ思考が過ぎるだろう。
国境とは“異なる世界との境界線”であり それはつまり「生と死の境界線」だ。
マイクに先行し越境する三人の女性。彼女達の目的地が海岸、つまり“彼岸”だ。続いてマイクが口にする「休暇/ holiday」は“聖なる日”である。

予てよりイーストウッドは自身を亡霊に準えていたが「グラントリノ」以降より顕著に“生死境界線上彷徨う夢遊病者”を色濃くしてゆく。

依頼を告げに来た元雇い主(ヨーカム)とのやり取りー「鍵を掛けないのか」「盗られるものは何も無い」も、この家宅に今や居住者無き事を暗示する。

マイク、少年、雄鶏が横並びと為る道行きにかかるディゾルブで、刹那消える彼等の肉体。時間経過を示すのは無論だが、同時に「実存性の消失」である事は論を俟つまい。

そして、幾度も〃も描かれるマイクの意識の喪失と横臥。
目覚めた彼が言う「砂漠の夢と思ったら現実だった」は“反語”であり、作品の『現実と思われる事象は全て非現実』である事を示している。

それを証明する様に、それまで通訳を介していた筈の彼は 後半に行くにしたがい スペイン語に対し英語で話し、無言で以心伝心し、動物達を統べる“超人/天使”と化す。
※マイク=マイケル/ Michael は大天使ミカエルの英語読みである事に留意したい。

その“イコン”となる「白馬の鼻筋に手を添えるイーストウッドと 其処に照射される光芒」が 眩い。



「新しい血(ブラッドワーク)が無ければ最早立ちゆかぬ 澱み歪んだ白人男性至上社会 - 即時的米社会危機項目」ー 厄介者のオールドタイマーは 諸悪の根源であるマチズモ/マスキュラーを携え冥府へ去り、嘗て厄介者であった筈の壁向こうの“モンスター”が 今必要とされ 召還される。
これこそが“雨宿り”した礼拝堂で“ミカエルの役割”をその身に“宿した”イーストウッドの“天命”である。



鏡、二面性、ダブルミーニング、裏返った看板、反語、もう一つの意味…。
どんなに車両を捜索しても何も見つけられぬ警察にイーストウッドが言う『腑抜け、三流、能無し共で助かったぜ』。
それはそのまま、表層しか見ず 作品真意を汲めぬ観客への苦言ではなかったか。
「15時17分、パリ行き」の『奥行知覚欠如』が深層に到らぬ観客への揶揄であった様にー。

時流である“多様性”なぞ 他者に整備されるべくものでなく、各々自らの複眼性を以て もう一つの側面/もう一つの意味を感取せねば、それは真の多様性ではなく 根本的にステロの侭だ。

現代多様性に配慮したエンディングに無上の清々しさを感じつつも、本作の多様な側面〈痛烈な皮肉/峻厳な諫言 〉は絶対に見落としてはならない。


なぁ、スペイン語で皮肉は何て言う?

― アイロニア ―




《劇場観賞×3》