田舎道を歩くのは好き。その村では犬をよく飼っていて僕の気配を察してまだ見えない内から吠えてくる。“よく夜に吠えるんだ、イノシシとか山から下りてくるから。イノシシと思うけれど、..大抵はね。”お爺さんが話してくれた。
薄青い明りの中、冷え冷えした霧が立ち込め、そびえたつ山脈のふもとに広がる草原の脇を小川が流れている。そこには、牧場があって、まだ若い夫婦が静かに寂しそうに羊の世話をしている。牧草を刈り取り、羊舎に敷いて餌の用意をして、子羊の産婆をこなして、そして二人で食事をする。単調だけど修道士のように落ち着いた毎日。少し曇り空の下、風が吹いているような画面を見てると、こちらも同じようにアイスランドの草原で、荒涼として人の想いを押し流すような冷淡な風に吹かれているような気がしてくる。
・・そんな夫妻が思いがけなく娘に恵まれた。
深い喪失感を抱えたマリアとイングヴァルは、エイダという娘に癒しと幸福を見出す。多少の無理があるけれど、夫婦はそれを顧みない。僕たちはいったい何を見ているんだろう？そんな単純なワンシチュエーションで淡々と進んでいくだけに様々な事象への寓話のように思える
だけど冒頭クリスマスシーズンに威力的に行われた受胎をマリアとイングヴァル夫妻は知らない、ボーダーコリー、馬、そして雌羊達は知っていたけれど。牧場のけもの達の呼吸、鼻息、鳴き声、蹄の音が人間たちの数少ない台詞を凌駕するくらい雄弁に不穏なおとぎ話を説明してくれる。牧場の来訪者への警戒・怯えはストーリーの間ずっと続いていた。そんなボーダーコリ―と猫の演技が素晴らしい。心配そうな小さな鳴き声・牧場を巡回する様子やアダへの緊張を孕んだ視線などは夫婦が盲目的に受け入れたあの状況に対しての僕らの想いの代弁者の様だった。その想いは突然訪れた夫妻の弟に引き継がれる。彼女を初めて見たときの弟のゆっくりとした瞬きも同じく言葉よりも雄弁だった。だけどその頃には僕も彼女に本当に夢中になっている。…,幼い生き物の最大の武器は愛らしさ。
そう、しゃべれないアダのうなづきや相槌が切なく可愛い。夫婦の台詞も少ないのでルークとR2D2のような過度に説明的なやり取りになることもない。日差しの中でウェーダーとタンガリーシャツを着こみ野原で花冠を頭上に戴いた姿は本当に愛らしい、それでも牧場は陰りに覆われる。無口だからだろうか、狭間にいる存在というはかなさが良く出ていた。
アダを迎えた夫婦の生活がまるで停まっていた時間が動き出した様に生気を取り戻し、夫婦の営みも再開する。夫婦はアダを愛するけれど、そこにあるのは何があってもエイダを“2人の娘”として育てるという決意しかない。言葉を発しないエイダの意志をきちんと確認できていたかは知らない。本来の食べ物を禁止する様子が親のエゴによって固まった身勝手な育児を連想させ、それに無垢な子供が翻弄される様子の様にも思える。一体全体2人はどこまでエイダを育て上げる気だったんだろう？まるで夫婦が勝手な独りよがりなロジックで自分たちを正当化してしまう厚かましい困った人達のようにも思えてしまう、ちょっとしたモンスターの様だ。
マリアは雌羊を撃つけれど、人でなく羊だから撃ち殺すのだろうか？人なら撃ち殺さないのだろうか？アダへの愛と喪失への恐れのどちらが大きかったかはわからない。行き場のなかった母性が新たな対象に縋りすぎて少し衝動的過ぎるような気がした。
でもその娘は本当はあなたたちの娘ではない。自然の摂理に反して自分の都合で湧き上がる愛情と新しく手に入れた癒し。あの娘は自分のものではないという惧れや不安そして予感は確かにあったんだろう。だから現実なのかどこかで感じている潜在的な意識なのか、すぐにはわからない不穏な夢に苦しめらていた。
見たままのモンスターとモンスターのような人が唐突に出会う。一体どちらに肩入れをすればいいんだろう。あの一撃は、自分勝手なストーリーに酔いしれる人たちへの裁きなのかもしれない。
アダが自分の姿を観た時や一族の大人達が盛り上がっている中、蚊帳の外に置かれたような状況は自分の立ち位置を望まなくても確認する機会になってしまったのかもしれない。あの時イングヴァルの手を握れない右手、差し出されたイングヴァルの手を握りしめて抵抗できるならその場にとどまることが出来たけれど、その自分の右手を見てアダも思い至ったのかもしれない。２つの起源の狭間で生きる自分を受け入れてくれるのは同類だけ、そしてアダはマリアを探しはしない。すべてを失った妻・母は何が起こったのかを知っているのだろうか？アダもエイダを探すことはしない。
アダはどう生きていくんだろう？彼女はタブーなのか？あのアイスランドの寒い地でそんな問いも生まれてしまうのかもしれない。エイダはいつか服を脱ぎすてるんだろうか？今夜は誰の傍らで眠るんだろうか？
•••アダ、幸せになってほしい。
