新潟の映画野郎らりほう

余命10年の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

余命10年(2022年製作の映画)
1.8
【生き写し】


小説執筆は原稿用紙に肉筆で以て為されるべきで、それを(Webコラムは兎も角)PCを使っている時点で 映画として駄目だろうと。

茉莉(小松菜奈)が著述する小説とは『彼女が自身の生命を削り込み 魂を生き写したもの』である筈だ。
当初は力強かった用紙との擦過音や筆圧が、時と共に弱まってゆき、終には 筆持つ事も困難に為るも 必死の思いで言葉を刻む。辿々しい指先で、慈しむ様に か細い筆跡に触れる ― その行為/身体性にこそ彼女の生き様(死に様と言い換えてもいい)が映し出されている筈で、それを『ただPCの前に座るだけ』の描写で済ましては はっきり言って怠慢である。

記述家であるなら自身の見た事感じた事を メモ帳等筆記具に 言葉で記録するべきだが、ここでも彼女が携行するのはビデオカメラであり大いに首を傾げる。

終盤に 和人(坂口健太郎)が使用する“茉莉に関連するある言葉”も、茉莉の直筆から起こした書体/フォントにする等の工夫は幾らでも思い付く筈だが、結局 この作品には 言葉や文字に対する敬愛なぞ微塵も無い。

冒頭 退院直後に見遣るノートの手書きの言葉に 彼女の心情が映り込んでいるとゆうのに、その後 全編に渡り肉筆が疎かにされるのは それが病状説明第一義で設定された場面であるからだ。
同窓会で配布されるタイムカプセルの肉筆も同様に“全く生かされず終い”とは皮肉である。



春は桜吹雪、夏は華火、秋は落ち葉で 冬は雪原とゆう凡庸な映像季語も 貧相な絵的ボキャブラリーを露呈する。



母と姉が茉莉に新たな治療の勧奨をする自宅ダイニングの場面。
意見は同意を見ず、声を荒げた茉莉は自身の非礼を謝罪した後 部屋を後にする。そんな妹を追い 姉も退室し、部屋には父と母が取り残される―。
空間が居た堪れぬ緊張に支配される上記シークエンスは その緊張感を断絶せぬ様ワンカットで見せ切るべきであるが、いったい何回カットを割るのかと。
一つ覚えの如く人物間の会話がアップのカットバックで撮られるのだが、俳優のスケジュールに気を遣ったのか、将又 新型コロナ対策かと邪推する。何より、何の為のシネマスコープかと。




ラストカットで和人が見るのは、言葉(書籍)に転生し 永遠の生を生き続ける二人の『生き写し』だろう。




《劇場観賞》