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死刑にいたる病のkuuのレビュー・感想・評価

死刑にいたる病(2022年製作の映画)
3.8
『死刑にいたる病』
映倫区分 PG12.
製作年 2022年。上映時間 128分。
『凶悪』やら『孤狼の血』の白石和彌監督が、櫛木理宇の小説『死刑にいたる病』を映画化したサイコサスペンス。
『彼女がその名を知らない鳥たち』の阿部サダヲと『望み』の岡田健史が主演を務め、岩田剛典、中山美穂が共演。
『そこのみにて光輝く』の高田亮が脚本を手がけた。
恐らくですが、原作小説と映画のタイトルである『死刑にいたる病』は、キルケゴールの著書『死に至る病』のパロディかな。
作中、大学でキルケゴールについての授業が行われているシーンがあった。

ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』は、1991年の公開以来、ホラーというジャンルに多大な影響を与え、スピンオフをはじめ、連続殺人犯を描いた映画やドキュメンタリー、見ごたえのあるシリーズが絶えることなく続くことに貢献してると云える。
しかし、アンソニー・ホプキンスが演じたハンニバル・レクターは、機知とセンスに富み、人肉への飽くなき欲望を持つ人物であり、その右に出る者はまだいないかな。
しかし、今作品、白石和彌監督のサイコスリラー『死刑にいたる病』では、親しみやすいパン職人が殺人鬼に変身し、阿部サダヲはその候補にふさわしい人物であることが証明されている。
阿部サダヲのユーモラスな表現がまた怖さをマシマシにしてた。
櫛木理宇の小説を原作とするこの映画は、デミの名作と似たようなストーリー展開にさえなっていた。
大学生・雅也は、連続殺人犯の灰村大和と面会し、大和の鋭い洞察力と巧妙な操作に翻弄されることになる。
この二人の関係は、ハンニバルと、ジョディ・フォスター演じる意志の強いFBI捜査官の関係に似てた。
映画は、雅也が死刑囚の大和から面会を求める手紙を受け取るところから始まる。
そして、かつて人気パン屋として賑わいを見せていたヤマトが、なぜムショにブチ込まれることになったのかが、フラッシュバックで描かれる。
田舎の山小屋で、18、19歳の若者を拷問して殺し、その灰の上に新しい木を植えていた。
23人の若者と1人の成人女性を殺害した容疑で逮捕されるまでに、彼は一直線に長い人生を歩む。一匹狼で冷徹な父を嫌い、温厚な母を憐れむ雅也は、大和の犯罪が発覚する前、彼のパン屋の常連客やった。
刑務所で再会した大和は、当時内気だった中学生の雅也がいつも "BLTとOJ "を注文していたことを懐かしく思い出す。
『いい思い出だ』と彼は云う。
『君と話していると落ち着くんだ』。。。
死刑判決をストイックに受け止めながら、大和は、26歳の会社員という被害者については責任を負わないと主張する。
『なぜ、20歳を過ぎた女性を絞め殺すのか』と蔑むように問いかける。
法学部の学生である雅也は、調査をすることに。。。

執拗に真相を追う雅也の姿に、犯罪捜査、ホームドラマ、青春小説など、まるで別の映画のような要素が混在しているのが今作品の特徴と云える。雅也演じる岡田健史は、最初ミスキャストに見えた。
ひとつには、彼がイケメンすぎて、友達のいない雅也を演じるのにリアルさがなかった。
もうひとつは、彼が精神的に傷ついただけでなく、むしろ受動的で無色透明な人物として映ってしまう。
しかし、後半になると、雅也はより強く、自己主張するようになり、彼の捜査は個人的な不安を煽り、肉体的に危険な次元にさえなっていくし、彼でもアリかなって思った。
また、彼の母親と大和自身の暗い過去との関係が明らかになると、機能不全に陥った家族の問題が、メロドラマ的な鍋の炒め物以上の意味を持つようになる。
しかし、脚本は、都合の良い偶然やひねりに大きく依存しているため、ストーリーはプロットの要求に応えるためにあまりにもきれいに構成されているように感じられた。
とは云え、阿部の演じる大和は、魅力的で冷ややかな顔の微笑みと、鋭く道徳的な腐敗を感じさせる頭脳で、恐ろしいほどの説得力をもってた。
-彼は悪なんか?-
彼の犠牲者たちの苦悩を、不穏なまでのリアリズムで描いている。
しかし、おしゃべりな農家のオヤジや元隣人が雅也に云うように、
-彼は親しみを持てる男やった-
阿部サダヲぴったりな役やん。
サイコキラー以外はやけど。
あと、岩ちゃん(岩田剛典)も何かよ~分からんがエエ味を出してた。
ただ、過激描写は韓流と違い、作り物感満載やったし(あくまでもホラーを結構観てきたし耐性が付いてますしそう感じたのやと思いますが)、最後の女子のニヤリはちょっとリアリティに欠ける感じがしたかな。
とは云え、面白い作品でした。


今作品と、キルケゴール『死に至る病』について徒然に。
キルケゴール『死に至る病』(デンマーク語: Sygdommen til Døden)は、非常に難解な文章から始まります。

『人間は精神である。
しかし、精神とは何であるか?
精神とは自己である。
しかし、自己とは何であるか?
自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。
自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。』

いきなりこれやし、取っ付きにくいし、意味がわかりにくい。
ここでいう『自己』てのは、今てのを生きている己自身。
せやから、本当の自分であろうとする自分から目をそらしている場合が『絶望』のはじまり。
自分をごまかしているって感じかな。
また、キルケゴールによると、誰でも『絶望』に陥るとされる。
今作品邦画『死刑にいたる病』の主要キャストも然り。
と云うんは、人は一生、己自身とつきあっていく存在やからです。
つきあっていくしかない。
他人ではなく自分に対しての関係がうまくいかずに、自暴自棄になったり、投げやりになったときなどに『絶望』が生じる。
キルケゴールは、この絶望こそが、人間にとってもっとも恐るべき『死に至る病』やと説く。
『絶望』するから『死ぬ』ちゅう意味ではなく、『絶望』てのは死にたいんやけど、死ぬこともできずに生きていく状態って感じかな。
肉体の死をも越えた苦悩が『絶望』。
つまり、生きながら死んでいるような、🧟ゾンビ状態のことを『死に至る病』と呼んでいる。
キルケゴールは絶望の種類分けしとる。
(絶望の諸形態)
[1]無限性の絶望、
[2]有限性の絶望、
[3]可能性の絶望、
[4]必然性の絶望。
さらに絶望には諸段階があるとされ、それは己が絶望であることを知らないことから始まる。
『己が絶望であることを知らないでいる絶望』てのはもっともレベルの低い絶望とされてる。
テンションの高いときが実はもっとも危ない状態。
動物が絶望しないのと同じく何も考えていない状態なので、いつかは必ず絶望を自覚するようになるんやけど、そのときは遅いかもしれへん。
絶望予備軍のようなモン。
次の段階やと、
『己が絶望であることを自覚している絶望』やけど、これは次の2つの段階に分かれる。
それは、
『弱さの絶望』と『強さの絶望』です。
『弱さの絶望』は快楽や幸運に見放された己に絶望して現実逃避する状態と、己の弱さにムカついているという2つのあり方。
『強さの絶望』は自我の絶対性をもつ傲慢な態度。
世の中が理解してくれへんのは、己のレベルが高いからだと主張しながら頑固に屁理屈をとなえて生きる絶望状態。
人の意見を聞かず、内側に閉じこもって、どうどうめぐりをしている。
だれも指摘してくれないので悲しい絶望と云える。まあ、みんなそうなんやけど。。。
さらに、『罪としての絶望』へと進む場合がある。
この段階では神の観念をもちながら、絶望したままでいるという罪の状態。
最後の希望にも背を向けてんので、『死に至る病』の極限状態になっているとされる。
こうしてキルケゴールは、絶望についての詳細な分析を加えるんやけど、結論としては、やっぱ人は絶望する方がよいと云うことや。
ちゅうのは、人は動物以上であり、自己意識をもつからこそ絶望しうるわけで、意識が増す(自己をみつめる)ことで色んな挫折を感じ、
『このままやったらヤバい』ちゅう焦燥感が強まってくるもの。
このとき、別な人間になろうと決意をしなかったり、絶望して自分を憎悪しつつも、みじめな自分自身でありつづけようとする態度はかなりヤバい。
せやから、絶望を人生の成長として捉えることが大切なんやろと。
そんなこんなを考えながら邦画『死刑にいたる病』を観て、キルケゴール『死に至る病』を思いだし、もの思いに耽る休み明けの明け方でした。。。
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