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聖闘士星矢 The Beginningのbackpackerのレビュー・感想・評価

聖闘士星矢 The Beginning(2023年製作の映画)
2.0
【令和最新版】日本漫画原作米国実写化作品

〈備忘雑感〉
「勇敢な行いと悲劇的な最後で記憶される」

まさしく、製作を試みた勇敢さと、鑑賞後に残った悲劇的な"ハズレ感"で、記憶に残る作品だった。
ベタな構造の物語は、その反復し尽くされた展開故に、ある程度の独自性や巧みな作劇さえ上手くハマれば、色褪せることなく面白い。逆に、それができなければ、陳腐でありふれた作品で終わってしまう。
生み出される創作物の基本形が出尽くしている中では、如何に上手に組み上げるかが差となる。その点本作は、オーソドックスで堅実な作りながら、独自性も完璧に不足しており、お話にならなかった。
個人的には、画作りの拘りに致命的な不足があったと思う。

本作は、The Beginningとの邦題からもわかるように、『聖闘士星矢』という壮大な物語の序章のような話だ。
続編制作を視野に入れ、拡張性が残るよう意図的にそのようなストーリーテリングをしたのかは定かではないが、単体作品として考えると、面白みのない作品だった。
系統として、『ロード・オブ・ザ・リング』後に量産されたファンタジー作品及びヤングアダルト小説映画化作品、日本的には、数多ある漫画実写化映画の内、不出来な部類の作品群と同じ臭いが強く漂う。
具体的には、『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』に『モータル・コンバット』(2021年版)と『モンスター・ハンター』を融合したようなモノ、というのが近いイメージだ。
愛すべき"イマイチ映画"に新しい仲間が加わったことは、むしろ讃えるべきかもしれないが、20年前に作られて、10代の時に見ていたら、もっと楽しめたと思う。


本作から感じた"安っぽさ"と"古臭さ"、原因はなんだろう?
一つには、私個人への影響という意味で、真面目に見るとナンセンスに感じるものを、リアリティーを持って観客に届けようとする作品、具体的にはMCUに代表されるアメコミ系超大作作品群がもたらした"作品への眼差しの転換"がある。
現実世界に近い世界観設定で、メカニカル又はファンタジックに乖離したものが見せられる場合、コチラを納得させ、世界観に引き込ませるだけの、一定以上のリアリティラインを確保してほしい。
裏を返せば、ある程度のフィクションラインでも、観客が違和感なく受け入れられるよう、細部の表現に拘りと厳格さを持って臨んでほしい、ということだ。
本作においては、“それっぽい空間の画面”でもって、「我々の作る世界観はこれです」と観客へ示していた。
だが、画面に映り込む美術等の情報で読み取るには、些か作り込みが雑ではなかろうか。
物語の土台たる世界観の見せ方には、もっと拘るべきだった。なぜなら、ベタな世界観設定の物語だからだ。作りこみと細やかな気配りなくては、ベタベタ物語にオリジナリティを出すことはできないと思う。
故に、本作の美術は必要十分とはいえなかった。むしろ「これで十分ニュアンス伝わるでしょ」と適当に放り出し、観客個々の有する背景(原作知識の有無、同系統作品への造詣の深さ、粗に対する寛容さ、等)に委ねられ過ぎではないだろうか。ある程度の大雑把さや観客への委ね方にも、相応のやり方というものがある。本作の投げやりな態度からは、見る人をナメていると感じてしまった。

上記と被る内容でもあるが、原因をもう一つ挙げる。
冒頭シーンからエンディングまでの全編にわたり、いささか手抜き気味なクオリティの映像と、ベタに過ぎる物語が展開し続けたことだ。
ベタな物語自体は、別に悪くない。『MADMAX怒りのデスロード』のように、強烈に面白くなる場合もある。
しかし、ベタな物語が微妙な画で語られるとあっては、文句の一つも言いたくなる。
ショットの微妙さ、アクションの見せ方、遠景のズボラさ、美術のまとまりのなさ。
単純に、構図がイマイチでキメ画も貧相ときて、全編しょぼくれた雰囲気を醸し出し、見ていて辛いのだ。
特に画面の構成力や画作りのチープさは際立って目立ち、「予算がないのか?」と思わずにいられなかった。
この点、ハリウッドスケールの枠組みで制作されるハイコンセプト作品と認識して見に行っていた私にも、問題があった。
本作、SONYピクチャーズがドカンと金出して作っているのかと思ったが、どうもTOEIアニメーションで作ったものっぽいのだ。
聞くところによると、予算は80億円だとか。日本の規模ならかなりの高額だが、ハリウッドのビックバジェット作品としてはあまりに安い。というか、この出来で80億って、興行で回収できるのか???
(「豪華キャストの招聘に金かけすぎた」のかもしれないが、本作のスター達を"豪華キャスト"枠に収めたいのは、単に自分の欺瞞な気がする……。)



私は原作に拘りもなくアニメも未視聴のため、特段の先入観はないフラットな状態で望んだつもりだったが、本作の脚本には、全く面白味がなかった。ここまで心に波風が立たないのは、むしろ新鮮でもあった。
作劇上の見せ場が悉く中途半端で、どうにもシーン間のまとまりがない印象だ。各シークエンスの中身も薄っぺらい。
オフィシャルな脚本家が3名列記されているため、名前の乗らない脚本家が他にも関与していることは想像できるが、本作の中心軌道が定まらないことの原因は、脚本上の問題としか思えない。

結局本作は、誰の何の物語だったのだろうか?
主人公星矢の目的は、幼い頃に生き別れた義姉との再会である。
ギリシャ神話をベースとした設定もあり、星矢は、古しきゆかしい英雄の成長譚というキャラクターアークを辿る。
しかし、彼の目的=行動原理と、現在背負う果たすべき使命(シエナ=アテナを守る)とが相関に関係する必然性が薄い。アテナと行動を共にすることが、義姉を見つけ出すことに繋がるという結論は、結末部で定まったものであり、作品全体の骨子とはなっていない。
序盤の条件設定パートにて、目的と使命が明確化され、相互の衝突による葛藤があればまだよかったかもしれないが、定まるのが最後では、物語をドライブする推力にならない。

神アテナの生まれ変わり、シエナ視点ではどうだろうか。
アバンタイトルにて、「アテナは人類の守護者であり、彼女を守る聖闘士達と神々と共に戦っていた」と説明されたにも関わらず、彼女は本作での人類の敵ポジションとして、対立の元凶とされている。「内なるアテナが表出すれば世界が破滅する」と信じるシエナには、常に苦悩し葛藤する原因があるため、中心軌道としては魅力的だ。
だが、彼女のサブプロット自体がアバンでの基本設定と矛盾している上に、話に関わってこない。

その他の主要登場人物、アルマン・キド、ヴァンダー・グラード、カシオス、ネロ、マイロック、マリンの視点はどうだろうか。彼らには彼らのドラマがあった。

キドとグラードについては、原作にもない独自の設定とその掘り下げがあったものの、これが逆に良くなかった。なぜなら、この物語の"悪"としての役回りをするグラードと、シエナの父でありアテナの守護者であるキドは、元夫婦なのである。そのため本作は、「離婚した夫婦が子の親権を巡って争う物語」という、『クレイマー・クレイマー』や『マリッジ・ストーリー』等と同様の構造を持っており、それが殺伐とした殺し合いの原因となっているのだ。
要するに、夫婦喧嘩である。犬も食わねぇぞ、そんなの。この夫婦喧嘩の構造をもっと上手く使いこなせば、話しはいかようにも面白くなっただろうに。
しかし、そうはならなかった。
物語における対立の原因は、「シエナ=アテナを生かしておいては人類滅亡の危機がある」という主張について、YESかNOかの立場の違いが招くものだった。
当然悪役グラードは、娘のシエナ=アテナの抹殺を目標に行動するのだが、ここで物語の欠陥が露呈する。夫のキドを死なせたその後、シエナ=アテナの抹殺目前に至って、母親の愛かなんかの理由で手の平を返し、シエナ=アテナを助けてしまうのだ。
おいおい、じゃあ今までの対立は何だったのさ。明らかに、キドとのコミュニケーション不足が原因じゃないか。相互理解に向けた努力を重ねれば、こんな事にはならんかったぞ。
グラードの苛烈さとキドの徹底した引きこもりが噛み合って、娘の生殺与奪を巡る夫婦喧嘩が繰り広げられた結果、多くの不幸を生み出したのだ。勿論、星矢の幼少期の不幸も。
完全に巻き込まれ主人公となっている星矢の行動原理も、アホ夫婦が原因だったとわかるのだが、それについてもなあなあで済まされてしまう。だからこそ、星矢の抱える葛藤構造がしょぼくなるのだ。結局、この夫婦喧嘩構造は、全然いい効果を発揮できていない。

星矢の宿敵?カシオスのドラマは、正直変だ。カシオスがなぜ星矢に反感を抱き、一方的に敵視しているのか、理由は不明なのだ。一見すると、彼の仕切る地下闘技場で、踊るようなバトルスタイルをしていた星矢のことが気に食わなかったこと、その後恥をかかされたこと、顧客にクビを宣告されたこと、等が原因のようだ。超子どもっぽい逆恨みのような行動理由は、弱い噛ませ犬にはふさわしい。しかし、主人公のライバルポジションには、しょぼすぎやしないか(そもそも、なぜ星矢がカシオスの地下闘技場で闘っていたのか、その理由も謎だ)。
故に、彼らの対立軸はとても弱い。結局、第三幕でのVSカシオス戦は秒で終わり、星矢の最終決戦は鳳凰星座の一輝ならぬ不死鳥のネロとの一騎打ちで〆となる。それまで散々やりあったカシオスは、雑魚Aとして散る。こいつ、何だったんだ……。

不死鳥のネロは、理由はよくわからんが、黄金聖闘士の聖衣欲しさに暗躍していた。こいつの行動原理も、多少なりハッキリ提示してくれてもよかろうに。
まあ、この人は登場しなくてもよかった。話に絡まないし、無駄に手数を増やす必要はなかった。

執事のマイロックも、いなくても差しさわりないキャラではあった。だが、普通の人間枠でまともな格闘戦を繰り広げ、キレのあるアクションを披露してくれた。変な話だが、最もいい味を出していた人物は、マイロックと言っても過言ではない。
であるからして、もっと色々な役目を与えて、話しの中枢に食い込んできてくれた方が、この作品にプラスになったと思えてならない。

星矢に指導をするマリンさんは、マーリン、ガンダルフ、オビ=ワン・ケノービ、ヨーダ、ジョン・キーティングといった、主人公を導く老賢人・師匠・教師という、超おいしいポジションだ。
が、残念なことに、彼女がその存在感を示せていたかというと、甚だ疑問だ。なんせ、第二幕で星矢に修行を課し、聖闘士としての基礎を教えると、その後はフェードアウトして、物語に一切絡まなくなってしまう。影がやたらと薄い師匠だ。
思えばこの人は、星矢が、自身の内的葛藤に対して決断をし、成長していく過程は、星矢の閉じた世界の中で自己完結しており、マリンさんは全く影響を与えられていない。
ダニエル少年にとってのミヤギ老人にならなければ、師匠とは言えない。
マリンさんの立ち位置は、師匠というよりも、トレーナー兼スパーリングパートナーというべきだろう。フィジカル面(内なる小宇宙の成長という意味も含む)でのトレーニングモンタージュは、文字通り修行パートとして展開されるが、星矢の内的な成長というキャラクターアークでは、僅かな影響にとどまっていた。

はてさて、主要登場人物の役割を考えると、本作が誰の何の物語で、中心軌道がどこに定められているのか、ますます判然としなくなった。
とりあえず、主人公である星矢を起点にして考えるが、彼の葛藤と成長のドラマは、強制的な場面転換に引きずられるものに過ぎず、成長することそのものをメインとして考えられてはいなかった気がする。主人公でありながら、物語を転がすうえでは、蔑ろな対応をとられていたようにも思える。結局、この映画は何がしたかったんだろうか。改めて振り返って考えてみても、やはり面白くない。鑑賞時、ズンズン白けていったのは、こういう理由からだったのか。


正直言って、本作の見所は新田真剣佑のアクションと肉体美くらいだ。
けれど、そんな真剣佑アクションへのアプローチについても、正直苦言はいくらでもある。彼のアクションが悪いのではない。彼のアクションシーンに色々くっつけてくるせいで、魅力が減衰していることが困るのだ。
千葉真一の息子として、基礎から叩き込まれている真剣佑だからこそ、彼の能力をフルに活かすアクションシーンが構築可能なのだ。だが、彼のアクションの締め括りは、えてして過剰なCGエフェクトやワイヤーワークによって終わる。これは、小宇宙を燃やし闘う聖闘士としての星矢である以上、仕方のない事ではあるが、CGはやりようによってより一層の本物感を醸成できるのだ。
これは、先にも書いたMCUのような大作で浸透した認識かもしれないし、そんな超大作と比較するのはそもそもナンセンスであることも理解している。土俵が違うのだ。向こうは幕内、こっちは三段目。似たジャンルなのに、根本的にジャンル違いだ。
それを加味しても、本作のCGやVFX合成は、真剣佑のアクションのポテンシャルを、致命的に損なっていた印象である。
本作のアクションの最大の問題は、致命的な重みの無さだ。
真剣佑のキレのある動きは、劇中「踊るように」と揶揄されていたが、非常に素晴らしい。しかし、格闘戦の要所やフィニッシュに付け足されるCGやVFXで合成されるエフェクトやワイヤーワークが、折角のアクションを台無しにし、肉体性を急速に奪い去った挙句、急に重力も空気抵抗も感じない軽さを付与してくるのだ。なんでこんなことになっちまうんだよ……。


話は変わるが、監督がトメック・バギンスキー氏になった理由がなんなのか、非常に気になる。
私はこの作品で初めて、トメック・バギンスキーという名を知った。2002年に短編アニメで注目され、近年はNetflixの『ウィッチャー』や『イントゥ・ザ・ナイト』で製作総指揮を務めた人物らしい。CG畑の人間であることは間違いないが、実写作品の監督としては、難ありだったのではないだろうか?
実際、監督がCGのプロフェッショナルにもかかわらず、技や爆発のエフェクト全般で、期待される効果を満足に発揮しきれていなかったとしか思えない。
キドの屋敷の大爆発を捉えた空中ロングショットは、午後ロードで見るB級アクション映画と同レベルかそれ以下だった。爆発に力を入れている作品と比べれば、雲泥の差である。
どーしても、CGの粗が目立つ。参った……。


細かく突っ込んでいくのは疲れたので、後は適当に箇条書き。
・主人公星矢の背景設定が、原作を元にしているにも関わらず、100万回見たようなありふれたものである上に、延々と語られる説明セリフによる設定の周知には辟易。
・なんとなく高度な科学技術が登場する謎の世界観は、社会を構築する市政の人間が全く出ないため、「人間のために戦う」というお題目が上滑りして見える原因になっている。
・島の施設を監獄と言いながら、隔壁のなさそうな浜辺を平気でうろつく。
・X-MENのワンシーンのような謎改造手術シーン。
・星矢修行パートは、東映のロゴを最初に見ているせいか、戦隊ヒーローや仮面ライダーでお馴染みの石切場にしか見えない。
・大画面一杯に広がる余白まみれの石切場と、空に浮かぶ砕けた不思議神像、大変に素早いカタと功夫風演武等を臆面もなく見せられると、受け止めきれない。
・ギャグシーンもとい修行パートは作中最も面白いところで、星矢の忘れていた記憶が蘇る→修行を切り上げて帰還する第二幕ミッドポイント以降のシリアスな第二幕後半は、まるで見応えがない。
・爆弾の起爆装置だろうがミサイルの発射装置だろうが、使う前に使用宣言するな。使ってから言え。『ウォッチメン』のオジマンディアスを見習え。
・全てを失う定番の展開。アクションで転がす作劇のくせに、肝心のアクションがヘボい。
・クライマックスのネロvs星矢のバトルは、ガチャガチャしすぎて画面が汚く、結局合成のエフェクトに全振りされるため、見応えがない。
・神々の戦いと世界の破滅という半端じゃない大きな物語のくせに、展開されるのは家族喧嘩。深掘りもされない。この基礎設定どこいったんだ??
・どこまで行っても見たことある展開の連続には、陳腐という言葉では足りない程にただただ退屈。
・爆弾は使う前に使用宣言するし、捕まったシエナはもったいぶっていつまでたっても殺そうとしないし、冗長な展開を彩るやたらに壮大な劇伴の圧力ときたら。呆れ果てるほどつまらない。早く楽にしてくれ……。
・スローモーションと派手な音楽のアンサンブルは、真面目にやっているのはわかるが、あまりに強烈すぎて、どうしても笑ってしまう。なんて責苦だ。どうにかしてくれよ……。
・結局シエナ=アテナの身に起きた悲劇の意図がわかっていない。母親(グラード)の奪われた腕まで神の力でまた元通りなら、この家族喧嘩は全て無意味ではないか?こんなの拷問だよ。もう見るに耐えないよ……。
・クライマックスって要するに、「寝起きがめちゃくちゃ悪いお嬢様の癇癪大爆発を鎮めるため、使用人が悪戦苦闘する話」って感じだけど、それでいいのか?ひとおもいに殺してくれ……。

公開初日に駆けつけて、この体たらくを見せつけられた衝撃たるや。
なぜこんなことになってしまったんだ。
どうして……、どうして…………。
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