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ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーのbackpackerのレビュー・感想・評価

3.0
【備忘】
ゲームプレイ映画としては100点満点最高峰。もっとも、劇映画としては落第点。
平面的な2D横スクロールアクションゲームの世界を、3Dアニメーション映画にするとこうなるという、ゲームの映画化における決定版が誕生したと言って過言ではない。
他方で、元来ストーリーがあってないような
ゲームの世界に映画一本分の物語を与えるのは、ある種の蛇足になりかねないこともあってか、フンワリと中身のない話でお茶を濁している。このため、劇映画として脚本家が練り上げておくべき物語は、ほぼ、ない。
ただし、この映画が目指す方針・本質・バックボーンが「劇映画を作る」ことにはなく、『スーパーマリオ」というゲームコンテンツの世界観がスクリーンを踊り、観客をゲーム世界へと入り込ませることに主眼を置いているのは間違いない。よって「劇映画として破綻しているからダメだ」といった指摘は的外れでもあることは理解した。
とはいえ、仮にも映画のフォーマットで劇映画を志向した作りの物語を組み立てている以上は、とりあえずは評価をつけておきたいのもまた事実。よって、落第点としておく。
為念記載しておくが、本作で展開される物語は『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』と大差ない。ショッキング性を削り、徹頭徹尾子ども向け世界観に振り切った『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』と言っても差し支えないかもしれない(差し支えあるか)。

本作を見ていて一番好ましかった点は、ピーチ姫のキャラクターロールである。
古式ゆかしきマリオ世界では、ピーチ姫の役割は〈悪漢に囚われた宝物〉で、勝者に与えられるトロフィーだ。そこに主体性はなく、女性を物のように扱う旧態依然とした価値観に縛られているとも言える。
一方、本作のピーチ姫はどうだったか。
一番大事な点は、彼女は、マリオの助けを本来的には必要としていないことだ。なぜならマリオは救世主ではなく、偶然紛れ込み、離れ離れとなった弟を取り戻したいただの男に過ぎないからだ。代わりに、ピーチ姫には新たな属性が色々と 付与される。一つはメンター、一つは相棒、一つは気高き為政者。ピーチ姫はか弱く攫われるだけのトロフィーではなく、男の役割とされていた固定観念を打破する、偉大な主人公としての一個人となっているのだ。
代わりに、従前ピーチが有していた〈救出される者〉という役割がルイージに引き取られたことで、マリオとルイージの物語は兄常愛に重きを置いた構成となった。これは、『スーパーマリオ』というゲームを改めて映画化する上での重要な変化と言える。ある意味で、『アナと雪の女王』のマリオ版のようになったと言えるだろう。

閑話休題

ピーチ姫の役割が進歩したことで、本作で最も印象的なシークエンスとなったのが、2幕のミッドポイント以降の流れである。即ち、マリオとドンキーコングが虹の橋から海へと落下するくだりからの展開だ。
この時ピーチ姫は、旅の仲間の喪失にショックを受けるものの、マリオたちの救出には動かない。なぜか?
それは、ピーチ姫の行動原理が、自国・国民を守るために戦う使命感から来るものだからだ。
行きがかり上仲間となったマリオよりも、キノコ王国を侵路者から守るために仕入れてきた同盟者の軍団(むしろ傭兵と言う方が近い気はするが)が壊滅し、目論見が潰えたことこそ火急の要件であり、真っ先に国へと持ち帰らねばならない情報なのだ。それに比べれば、髭オヤジの一人や二人が死んだって、ぶっちゃけどうってことはないのだ。仲良しが死んで悲しいけど、果たすべき役目を優先するのだ。イイ。
マリオとドンキーコングが落ちていく中、悲しげな顔で事の成り行きを眺めるピーチ。しかし彼女は走り去る。顔を上げ、前を向き、次の一手を打つべく即座に行動する。キノコ王国に帰り着くやいなや、国民に「逃げよ」と伝え、自分は城でクッパ大王を迎え撃つ。傍らに付き従うのはキノピオのみ。一本気で頼もしい人物だ。最高。
この後、遂に攻め込んできたきたクッパ大王とその軍団に対時するピーチ姫だが、実はクッパを面前に迎えるまで、彼らの侵攻の理由を知らなかった。よって、クッパが自らに求婚してきたことで初めて、国民を犠牲にすることなく侵路を乗り切る可能性の光明を得るのであるが、それまでのピーチ姫は「民と王国の為わが身を犠牲にする」覚悟を決め、死地へと赴いていたのである。立派すぎだろ。

一連のシークエンスを象徴するセリフが、キノピオの口から発せられる。「それでこそ姫」というものだ。
まさに本作を象徴する言葉ではないだろうか。
姫とは、ステレオタイプなトロフィーではなく、誇りと信念を持ち行動する者のことなのだ。姫が姫たる所以は、その血脈からなるのでも、大切に守られ箱にしまわれる者でもない。崇高な人間だから姫なのだ。
この現代的にブラッシュアップされた女性像は、ブルーブラッドの男がやらねばならないという貴族主義的ニュアンスからも離れた、革新的ヒーロー像を提示しており、高責に付随する義務の伝統性を革新するものでもある(ピーチ姫は孤児で、キノコ王国民とは異なる人種(人間)であり、おそらく王の血も引いていない。そのため、血の高貴さではなく、精神的な気高さでもってノブレス・オブリージュを体現しているのだ)。
勿論、女性の描き方を変えていく動きは今に始まったものではないが、『スーパーマリオ』という全世界的に知られるゲームコンテンツの映画化で語られたことに大きな価値がある。

ピーチ姫のキャラクターロールを考えれば、マリオやルイージに与えられた役割も影響を受けて変化したものであるように思える。しかし、マリオには、当初より課せられた目的・役割が明確に存在していた。それは、観客に、ゲームプレイを追体験させることだ。

本作屈指の名シーンの一つとして、マリオの修行パートがある。
ブルックリンとは異なる理があるピーチ姫たちの世界でルイージを救出するためには、持ち前の身体能力を向上させ環境に適応することが最重要となる。そのために必要な訓練を施すべくピーチ姫にいざなわれた先には、まさしくゲームをプレイしたことがある人なら誰もが知っている、”あのマリオのマップ”が用意されている。
ここで観客は、横スクロールアクションのマリオが、リアルな3Dになって縦横無尽に駆け回る様を大スクリーンで見ることで、ある意味究極のゲーム体験をするのだ。マリオが”死に戻り”を繰り返すことで強くなっていく過程を見せることは、実際にゲームをプレイしているような感覚に浸れるものであり、本作に観客が求めた欲望の根幹ではないだろうか。

逆を言えば、ピーチ姫には映画なりの独自性を味付けする余地があったものの、マリオには、観客が求める期待に応える責務を負わされていたため、ピーチ姫ほど存在感のあるキャラクター設定を異世界側で付すことはできなかった。それを補うためもあってか、現実世界のブルックリンでの不遇を与えることで、クライマックスのカタルシスとそれまでの葛藤構造を確保していたわけだが、これこそがやはり『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』と構造的に同一となった原因でもあると思われる(敢えてリスペクトからやったのか、自然とそうなったのかは、調べていないので不明)。

アレコレ書いたが、本作におっさんが大それた批評をすることは、それ自体ナンセンスなこととなってしまう性質を孕んでいるため、年に1回夏休み頃『金曜ロードショー』で流して、世のちびっ子たちをキャーキャ一言わせられれば、それで充分なのだ。
(なお、私はコナンポケモンドラえもん等に大人げなくアレコレ言うが、「大人げないことは理解したうえで突っ込むのが面白い」という楽しみ方の一つなので、ご容放願いたい。)
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